見出し画像

追い込まれたら逃げればいい

久しぶりの投稿になったけど、一応大きな変化はなく過ごしている。


とはいえ、あまりここ最近体調およびメンタルの状態が良くはなかったのは事実だ。5月に体調が悪かった時の症状とはまた少しずつ変わってきている。

体調に関しては、長いスパンで見れば「ずっと同じ症状が続く」という感じではなかった。2〜3週間ほど同じような症状が気になる傾向があるものの、ほんの少しずつ別の症状(複数のこともしばしば)に変わっていく感じだった。今日は昨日まではなかった頭痛が出てきたし、冷えを感じると関節痛というか節々の痛みも以前はほとんどなくて、ここ1週間ほどの話。結局、不定愁訴というやつになるのだとは思う。私が「体の調子が悪い」と言う時は大体メンタルの調子も良くはない。


メンタル起因で体調が悪いというのもまあ考えられなくはないが、私の場合は「体調が悪いからメンタルの状態が悪化する」というスキームが圧倒的に有力な気がする。そして、そこに追い打ちをかけるように(体調以外での)メンタルに良くない出来事や情報が来ると、一気に気持ちが沈んでいく。


最近は世間的にもハッキリ言って良いとは言えないニュースばかりが続いている。メンタルが壊れた人はニュースは見てはいけないとはよく言われているが、それでも目に入ってくることはあるし、そうそう避けられるものでもないなと少し思いながら、やはり相当なダメージを受けている。今回の日記では私が最近大きなショックを受けたことについて書いているので苦手な人は読まないでほしい。


最近嫌な事件がまた増えているし、悲しいニュースも多かった。ALSの方の嘱託…の件。それから例の感染症の罹患者が毎日毎日増えていっている。他にも長尾大さんという私の好きなミュージシャンがつい最近逮捕された。このあたりが結構メンタルの弱いところに刺さってきて、考え込むことがあった。でもここ一年の中で一番きつかったなと思うのは、やはり三浦春馬さんの件。同じような人も多いのではないかという気がしている。


事件・事故にしても、病気にしても、自死にしても「結果的に人が亡くなっているニュース」に関してはいつもなんとも言えないやるせない気持ちになる。でも、今回のように本人の絶望が伝わってくる場合は余計にきつい。無駄だとはわかっているものの、本当にあれこれ考えた。私が10代の時『孤独と不安のレッスン(鴻上尚史)』を読んで「何があっても絶対に死んではいけない」という言葉に救われたのは10代後半の頃だったけど、その言葉の意味を痛感した出来事だった。


「そんなふうに見えなかった」と多くの人が言っているし、わかる。自ら死を選ぶような「危うい感じ」はテレビの向こうで見ている私たちへはもちろん、身近な人に向けても出していなかったのかも。私もバラエティーやトーク番組、番宣で時々見かけたことがあるけど、いかにも無理して笑っていそうとか、そんな感じは決してなかった。彼が公の場に出るときのインタビューの受け答え全てが好青年で、人柄の良さがにじみ出ているように思った。


私の友人にも三浦さんに雰囲気が本当にそっくりな好青年がいる。繊細な感性がありながら周りを引っ張っていく力もあり、ユーモアもあり、気遣いの達人のような人だ。親しくなってから初めて悩んだときの表情を見たり憂いがあることも知ったけど、そういう顔を見せるときも最後まで周りに気を遣って話していたのを覚えている。だからって無理をしていたとか、表向きの様子が偽りの姿だとは思わなかった。私もよくセンチメンタルモードに入るので落ち込むことは多いけど、そういう時に飲み会やごはんの約束が入っていると、落ち込んでいた様子は微塵も出さないことが多い。「相手に申し訳ない」という理由もないわけではないが、その人に直接関係ないことで落ち込んでいるので、別の会話をしていたら自然と忘れられるという点のほうが大きい。その時の態度は嘘だったのかと聞かれたら全然嘘なんかではない。本当にその時は心から楽しめている。


だからっていうわけではないが、彼が最近まで笑っていた姿や仲間と談笑しているときの様子が全部嘘だったとは思わない。「表の顔」というところはあったとしても本当に心から出た反応で、決して演技というわけではなく、それも彼の「本当の姿」であったこと、楽しめている時間もあったことは事実なのではないかと私は思っている。複雑な葛藤や心の悩みがあったのは確かかもしれないけど、全てそれで埋め尽くされ、何の希望もなかったというわけではない気がする。


絶望を味わった経験のある人はわかるかもしれないけど、その時は本当に「もう何もかもだめだ」って思えるんだよね。視野狭窄と言うか、本人にしたら本当にもう何をしても自分はこれから希望がないと思えてしまう瞬間が何回もあったのだと思う。本人からしたら難しい問題を抱えているのは事実だから、全然視野狭窄なんかじゃなくて本当にもう無理だと感じる。大体の人はそれでも一人で過ごさない時間や仕事している時間で「考えるのを忘れる時間」があって、その間に頭が冷えたりして、その孤独の闇に落ちないですむことがあるんだと思う。多分、その見方のままでずっと考え込んでしまう時期があったから闇がどんどん深くなり、ある時にタイミング悪く思い立って「今だ」ってふと思ってしまうんだろう。


その闇に落ちた時に「助けて」って話せる相手がいたらよかったんだと思うけど、それができなかったのが悲しい。私は結局死ぬのが一番怖いから、溺れかけてる時に全部話して「誰かに助けてもらいたい」って気持ちがどこか強いタイプだけど、人によってはそういうタイプではない人もいるし、そういう気持ちがあってもケースが違えば止められないのかもしれない。


本当の理由が何かということは本人以外にはわからない(もっとも、なにか一つのことだけで衝動的にというわけではなくて複雑な要因が絡み合って、だとは思う)。でも、赤の他人でも報道内容等からなんとなく気持ちの想像がついてしまって、絶望したんだろうな、と思うと悲しくて仕方がない気持ちになった。彼が本当に素敵な人だっただけに、もうこの世にはいない、戻ってこない、寂しい、辛い、という気持ちを日本全体に味わわせるニュースだったと思う。


「体調が悪いとメンタルがすこぶる悪くなる」という私の症状も、なにか考えさせられるものがあって、危険だなと思った。体調に引っ張られてしまうということはまだかなりメンタルが弱っている。多分メンタルの強い人は「体調が多少悪くても努めて元気に振る舞うようにしないと余計に落ち込んでしまう」と心のどこかでわかっているのだと思う。夫もそうだと言っていた。心理学をかじった時、レジリエンスに関する研究を結構読み漁った。少しヒントになるものはあったけど、どうやったらこの心の折れやすさを改善していけるのだろうということはまだ日々考えている。


余談だけど、「ニュースを見るな」という考え自体は確かに間違っていないし、もちろんできる限りそうしたほうがいい。けど、それでも一切ニュースを見ないというのもまた別のストレスが溜まるものだ。なんでもかんでも目を背けろというのも極端だし、世の中で起きていることはある程度知っておいたほうがいいような気もする。「ニュースを見るな」という言葉の意図は「ニュースに深入りするな」という意味だと最近自分なりには解釈している。だけどそんな調節を器用にできない人、あるいは繊細で感受性の強い人は、いっそのこと見るなということだと思う。ただ、自分は全く見ないようにするよりはやはり自分で調節できるようにすることがレジリエンスを高める訓練の一つだと思って最近やってみているところがある。


明日重い腰をあげてメンクリに行こうと思う。別にものすごく調子がいいわけではないけど、休職直前に比べたら一応調子がいいということになると思う。だから細かい不調はあっても元気そうに振る舞ったほうがいいとは思う。そうしないと復職ができないし、いつまでも休職していてもお金ももらえないし「元気がない」と正直に話したところでそんなに簡単に治る方法が提示されるわけではないし、復職の時期を先延ばしされたりとか、後々ややこしいことになってしまう。


「元気です」っていうふりをするのは私にとって大して苦痛でもない。実際そこまで深刻に困っているわけではなく、元気に振る舞ったほうがいいって心のどこかでわかっているから。
これまでも何度もそういう場面でうまく取り繕ってきた。でもほら、こういうのがよくないんだと思う。こういうのが心の疲れが溜まって危険信号になる原因だと思う。こういう人が多いから、だから、こうなった場合に最後まで投げ出さない人の中で、残念ながら自死を選ぶ人がいるのだと思う。
私はわかってるから大丈夫だし、ちゃんと自分で逃げれる人だからそういう選択はしないけど、また途中で倒れたりはするのかもしれないって思っている。やっぱり無理かもって思ったらまた「ごめんなさい、無理でした」ってやるかもしれない。


生きづらい世の中だけどもう少し楽しいことを探してみませんか。
私みたいに「今は取り繕うしかない」って思っている人でも、ものすごく無理だと思う時がくることがあれば、そのうちいきなり逃げてもいいと思う。


コンフィデンスマンの新作映画のジェシーを見たら多分泣くと思うけど、一生懸命取り組んでくれた作品だと思うので、今度観てみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?