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長篠の合戦のこと

 長篠の合戦では、信長の先陣と旗本(本陣)との間に、堀切を構え、柵の木を結ってあった。織田勢がわざと負けると、武田の猛兵は、
「敵は逃げるぞ」
 といって追撃したが、柵の木によって行きなずんだ。そこを数千の鉄砲で雨の降るが如くに撃ち掛けると、無駄玉なく命中し、討たれる者は数知れなかった。
 武田が引き退こうと思えば、織田勢が柵から出て付け慕う(追い掛ける)。戦を挑めば柵の中に入って撃ち白ませる。勝頼の侍大将たちの勇気に申し分はなかったが、打ち破られようはずもなく、皆的となって討死したのである。

 同じ時、徳川の陣に、
「徳川家の先陣を下知されよ」(早く動かされよ)
 という信長の使いが来た。そこで内藤四郎左衛門正成は、
「我らの主君は、先陣の下知を他人から受ける者ではござらぬ。この内藤が承り、返答つかまつったと申されい」
 と荒々しく言って追い返した。
 これを聞いた信長は、
「徳川家には良き侍が数知れず居るものよ」 
 と言ったという。
 この発言者は内藤ではなく、同じく四郎左衛門の鳥居忠広とも言い伝える。しかしながら、鳥居は三方ヶ原で討死しているので、内藤に間違いなかろうと思う。

『常山紀談』より

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