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佐久間信盛、偽って勝頼に降る。   

 長篠の合戦の前に信長ははかりごとを廻らし、佐久間信盛から密かに長坂釣閑ちょうかん光堅みつかた)の許に使いを出させた。
「日頃より信長に恨みがござる。願わくは勝頼殿が軍勢を進められ戦がござれば、その時この信盛は裏切りして、信長の旗本(本陣)へ俄かにに斬り掛かりましょう」
 と言い送ると、釣閑は喜んで、奸計かんけいとは気付かず、勝頼に一戦を勧めた。
 それで勝頼も信じ込んでしまい、軍評定いくさひょうじょうでは、馬場美濃守信勝(信春、信房)をはじめとして、他の侍大将の言う事どもを悉く用いなかった。そして、
楯無たてなし㈠に誓い、進んで戦すべし」
 と決断したので、その後は諸大将も諌めることができなかったという。

㈠甲斐源氏の始祖新羅しんら三郎義光以来、武田氏の家宝として相伝された鎧。
『常山紀談』より


佐久間信盛について
勇猛果敢で鉄砲隊を指揮して武田軍に大勝した長篠の戦いや、先方を務めて武田方へ虚偽の内通を行った設楽原の戦いなど、織田家の主だった合戦に参加した。殿軍の指揮を得意とし、「退き佐久間」と呼ばれた。吏僚としても優秀で、信長の上洛に伴って京都の治安維持や近江国の行政を担当した。また、松永久秀や筒井順慶などの大和国の武将との交渉も行った。信長から厚い信頼を受けており、東大寺秘蔵の蘭奢待という香木を切り取る際に奉行を務めたり、徳川家康の嫡男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に供奉したりした。しかし、晩年には信長と意見が対立するようになった。一乗谷城攻めの際には敵勢を追撃しなかったことで信長から叱責されたり、水野信元を密告してその遺領を与えられたことで他の家臣から反感を買ったりした。天正9年(1581年)、信長から折檻状と呼ばれる手紙を突きつけられた。この手紙では、信盛が過去に犯した19ヶ条の罪状が列挙されており、その中には一乗谷城攻めでの失態や水野信元への不義などが含まれていた。この手紙によって信盛は高野山へ追放された。その後、高野山で病死した。


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