なぜオランダで包丁研ぎビジネスをはじめるのか(その二)

今回は前回の記事に引き続き、なぜ私がオランダで包丁研ぎビジネスをはじめるのかについて、また少し異なる角度から書いていきたい。今回はオランダの要素はあまり入れず、「包丁研ぎビジネス」という点に照準を合わせる。

解のある世界

私が今まで学んできた人文社会学には、絶対的な解がない。人文社会学は大まかにいうと、世界はどうあるべきかを人間の視点から考えそれに至る方法を提供するものだと私は思っている。しかし、哲学、社会学、政治学、経済学、法学など、どれをとっても絶対は解を提供することはなく、せいぜい様々な解の中から一番マシなものを特定する程度で精一杯だ。解の正当性は観点や価値観、前提、文化などによって大きく左右される。また、複雑なこの世界を正確に分析するということは無理だし、大幅に単純化されざるを得ないその分析に基づいた未来予測は不正確極まりない。

一方で、人文社会学は人間や社会の理解を深めてくれるので、この知識を活かすことはどこでもできる。しかし、直接的にこの知識を活用する場となると、政治や人道支援、調査などの分野となる。例えば国連がわかりやすい例だ。問題は、このような組織が取り組む問題は非常に壮大なもので、何十年も経たないとその取り組みにどれほど意味があったのかわからず、しかもその規模の大きさから国連内での個人の担当できる範囲は極めて小さい。

私は学部時代から人文社会学をやってきて、この解のなさと個人の無力さに行き詰まりを正直感じてしまった。

一方、包丁研ぎには人それぞれに解が存在するし、結果もすぐ明らかになる。すなわち、よく切れて刃が長持ちし、使いやすい研ぎ方が正解ということだ。
基本的には包丁は切れる方がいい。切れる包丁が怖いというのは、刃が手に当たることを前提とした話であって、そもそも使い方が間違っているのだ。手に当たらないように使えば手は切らない。

この両者を比べた時、前者をやることを考えると正直気が遠くなってしまう。しかもその中には熾烈なラットレースが存在する。大きなやりがいや楽しさはあるに違いないが、今の私にはそれを突き進むだけの気力やワクワク感を持っていない。
もともとオタク的な部分は持っているので、しばらくは少なくとも実用的な解、そしてそれに付随する美しさを追求していきたい。そしてそれを多くの人に楽しんでもらいたい。こちらに関しては考えているだけで楽しくなる。歩いている時や電車の中にいる時、包丁を眺めている時など、ふとした瞬間にアイデアが浮かびそれを実現する方法を夢中で構想し始める。時々、数時間ほど没頭してしまうような非常に充実した時間がやってくる。この文章もそうやって書いている。


ビジネス的感覚を身につける必要性

社会学などを学ぶうちに、経済の必要性について痛感することが多かった。社会学や哲学は、様々な視点や分析の方法など、本質的な部分に関する知恵を授けてくれるが、社会レベルでそれを実行する方法までは教えてくれない。経済的な側面、どうやってそれを現実世界で実現するかがわからない。
これを実現するために必要なスキルをビジネス的感覚と呼ぶとすれば、何を将来やるにしてもこれをできるだけ早く身につけたい。そして、なるべく早くにそれを日本以外の場所でできるようになりたい。比較的外国人にも開かれたビジネス環境が揃っているオランダはその点うってつけだと思っている。これが真の自立に不可欠だと思うし、これができてこそ日本に僅かながらの貢献もできるのだと思う。

ビジネスを通して自己表現をしたい

私はせっかく人文社会学を通して学んだ人間や社会の理解を活かすことは、経営者などのリーダー的ポジションで大きく発揮されると思う。ものごとを原因を大きな規模で考察する訓練をしてくれる社会学の感覚は、自分にある程度の裁量がないとあまりうまくいかすことはできないのではないか。
私にはまだ人に使われるためのスキルが少ない分、社会や人間、時代の本質を捉えて人が求めるサービスを提供すること、必要であれば人を使うことも組織をつくることなどは多少は上手くできるではないかと考えている。
そして、人文社会学が教えてくれた、人間中心の空間を規模は何人でもいいから将来的には創りあげたい。


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