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黒嶋敏『戦国の<大敗>古戦場を歩く なぜ、そこは戦場になったのか』山川出版社

戦国時代は、魅力的な時代である。多くの武将が登場し、敗れ去っている。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄たちが活躍した城や古戦場に興味を抱く人も多いと思う。

古戦場の中でも、大敗した場合、古戦場に首塚や、太刀洗いなど、恐ろしげな史跡が残される。著者は、大敗をテーマとした共同研究を行い、いくつかの大敗現場を訪れたという。

本書は次の古戦場を取り上げる。
第1章 桶狭間(今川義元)
第2章 人取橋(伊達政宗)
第3章 耳川・高城(大友宗麟、義統)
第4章 三方ヶ原(徳川家康)
第5章 長篠(武田勝頼)

桶狭間の戦いは有名で、だれでも織田信長が、この戦で戦国大名としての名をとどろかせたことを知っている。しかし、桶狭間の戦いは、同時代の確実な史料がないため、謎の多い合戦だという。

ひとまず比較的、信が置ける史料は「信長公記」であるが、信長側の史料であり、誇張された記述や、信長側からの一面的な描写にとどまる部分も少なくないという。

義元が休息を取った「おけはさま山」は、60m程度の低山であるが、低いながらも、分水嶺となっている。皆瀬川と鞍流瀬川は境川に合流して三河湾に向かうが、手越川は伊勢湾にそそぐ。

手越川と皆瀬川の狭間を結ぶ東西のラインは江戸時代になると、東海道となったが、戦国時代に尾張から三河に抜けるメインルートはその北側の道、鎌倉往還であった。

義元は鎌倉往還を避け、あえて南側の「おけはさま山」を経由する道を選んだ。信長軍が進発している鳴海に直行する鎌倉往還を避けたためであろう。

清須城にいた信長が、今川軍による鷲津・丸根砦攻撃の一報を受けたのは5月19日(太陽暦では6月12日)になり、夏至のころにあたる。手回りの臣下だけで清須を出立し、熱田まで3里(約12km)を約2時間で南下し、朝7時ころには熱田神宮を参拝する。

南方の空に鷲津砦・丸根砦の煙を見て駆けつけようとするが、直行できる海沿いの「しも道」は潮が満ちていて通行できず、やむを得ず迂回して陸側の「かみ道」を経由し鳴海城近くの善照寺砦に入った。

熱田から鳴海の間は、中世の東海道にあたり、どちらも宿場として賑わった。徒歩で行き交う旅人の多くは平坦な海沿いの「しも道」を通った。しかし、「鳴海潟」とも呼ばれた干潟の道で、潮の干満を見計らって通り抜けないといけなかった。

合戦時、鳴海城には今川方の武将が配備されていたが、信長はそれを取り巻くように北から丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を付城として置いており、信長はまず丹下砦に入り、善照寺砦に移った。

また、大高城は、知多半島を掌握していた義元にとって前線基地として是非確保しなければならない場所だった。それを防ぐべく、信長は、大高城を包囲するため鷲津砦・丸根砦に設置した。

信長の砦が機能している限り大高城は孤立無援であり、今川方の松平元康(徳川家康)は、そこに兵粮を入れることを命じられた。5月19日朝であれば、織田方から援軍が来ないことを見越して、大高城への兵粮搬入と、周辺の砦への攻撃を決定した。それは潮の干満の制約があった。

さらに、黒末川(天白川)の河口部の入海を挟んで、鳴海城・大高城が向かい合っているため、海水の満ち引きが城下まで及ぶ満潮時(5月19日朝)に、海上からも大高城へ兵粮搬入が行われた可能性がある。

鳴海城・大高城と、そこに参戦した軍船による大規模な海上勢力を動員した尾張侵攻計画であったが、昼過ぎから天気は急変し、雹が混ざるほどの豪雨が降り、軍船は身動きが取れない。

一方、信長は、干潮時で流量が減少したタイミングで川の中州にあたる中嶋砦に入り、そこから進軍した。義元の本隊を襲ったのは、雨上がりの直後だった。

「おけはさま山」は、樹木が茂る自然の山ではなく、人間の手が入った里山であった。義元は低い山の影に隠れるように軍勢を動かそうとしたかもしれない。しかし、この付近は低い山の間を縫うように狭間(谷筋)が込み合っていて、大軍の機動力が落ちてしまう。ついに、狭間のどこかで義元は死を迎える。

本書は、著者が実際に現地を歩いて確認していることから、地理的な関係がよくわかる。桶狭間の戦いが陸上のみ合戦ではなく、今川勢が、海上勢力を巻き込んで伊勢湾を掌握するための戦いでもあったことがわかる。

また、敗者の弔いのための墓や石碑などのモニュメントが後世になってつくられている場合もあるという。古戦場を歩いてみる場合に、まず本書を読んでから行うと、素人でも、いろいろと新たな発見ができそうである。









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