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近藤一博『疲労とはなにか すべてはウイルスが知っていた』講談社 BLUE BACKS

欧米では「疲れているのに頑張って働く」ことは、よいことではないと思われ、効率の悪い、愚かな行為と思われているので、疲労の研究が進んでいなかったそうである。

日本では過労死を防ぐことが、とても重要な問題とされているが、欧米では疲れていても働く人は、「自己管理ができないだらしない人」だと解釈されて、「自己管理」や「労務管理」の問題とされ、医学的に重要視されてこなかった。

しかし、新型コロナウイルス後遺症が深刻な問題とされるようになり、その最大の問題は「疲労」にあると考えられるようになった。欧米の学者も、脳の機能に深刻な問題を起こす疲労の研究に真剣に取り組むようになった。

著者は、疲労の研究で、世界をリードしている第一人者であり、その研究成果は、ノーベル賞級とも言われている。

うつ病の原因について、次の3つの説があるそうだ。
①心因説:心理的な問題として、できるだけ薬剤を使用しない治療を行う。
②モノアミン仮説・セロトニン仮説:ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンの総称である脳内のモノアミンが不足が原因で発症するとし、その中でセロトニンの濃度を選択的に上昇させる選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)が高い抗うつ効果があるとする。
③脳内炎症説:脳の炎症、とくにミクログリアやアストロサイトなどの脳の免疫機能に関係するグリア細胞での、炎症性サイトカイン産生の亢進によるとする説。

①では、うつ病になっても患者の脳は、基本的には変化しないということになる。
②では、薬剤が抗うつ効果を発揮するのに、投与してから2週間から1ヵ月かかることが説明できないうえ、うつ病患者の脳を調べても、実際にモノアミンやセロトニンが不足している証拠が得られない。

③は、リウマチや感染症など、体の末梢部分に持続的な炎症がある人では、うつ病のような抑うつ気分などが高い頻度でみられるという現象が発端となっている。うつ病は炎症性サイトカインが脳に働きかけることで生じるのではないかと考えられるようになった。

うつ病の原因が脳の炎症であるという説は、死亡したうつ病患者の脳の調査や、うつ病患者のPET検査、実験的に脳に炎症を誘導した動物による実験結果など多くの検査から、ほぼ確かであると考えられているという。

しかし、ストレスや仕事量が同じでも、うつ病となる人とそうでない人がいて、その人自身の「素因」も原因となっている。環境因(環境という要素)と素因(遺伝性)が相互作用してうつ病を引き起こす。

著者は、うつ病の危険因子「SITH-1」(シスワン)を発見した。

ヒトの体には、ウイルスも共存しており、これらを「バイローム」と呼ぶ。このうち、潜伏感染や持続感染の形で長期間、場合によっては一生涯、ヒトの体に棲みつく潜伏感染・持続感染ウイルスの代表例として、ヘルペスウイルス科のHHVー6がある。

神経を保護するグリア細胞の一種、アストロサイトの株化細胞を利用し、いったんHHVー6に潜伏感染した状態で刺激で再活性化を起こせるモデルから、ヒトの細胞に発現する潜伏感染遺伝子「SITH-1」を発見した。

SITH-1は、比較的小さなタンパク質(159アミノ酸)で、細胞内のカルシウム濃度を上昇させる性質のタンパク質(CAML)と結合し、カルシウム濃度の上昇の働きを増強させる。

マウスの脳の嗅球細胞にアデノウイルスの改造ウイルスを感染させて、SITH-1を産生させると、CAMLと結合して細胞内のカルシウム濃度を上昇させたあと、細胞死が起こるとともに、マウスはうつ病の特徴的な症状を示した。

SITH-1の名称は、『スター・ウォーズ』のSITHの暗黒卿の名前を拝借し、遺伝子の名前らしく「-1」を追加したものだそうだ。

一方、新型コロナウイルス後遺症は、脳内の炎症によって神経を包む鞘である「エミリン」に障害が引き金となっていることがわかっている。そこで、新型コロナウイルスのタンパク質の中で、細胞内カルシウムを増加させるタンパク質はないか探した。その結果、スパイクタンパク質の一部である「S1」というタンパク質が見つかる。

次に、S1タンパク質を発現するアデノウイルススペクターを作製してマウスの鼻腔内に投与し、S1タンパク質が鼻腔内で発現させたところ、倦怠感とうつ症状のどちらも示すことがわかった。脳内でウイルスの増殖がないにもかかわらず脳内炎症が生じていた。

S1マウスの脳をさらに詳しく調べたところ、脳内のアセチルコリン産生が低下していることがわかる。アセチルコリンを伝達物質として受け取る嗅球細胞が死亡すると、アセチルコリンを産出する部位の機能も低下していた。

S1マウスにアセチルコリン不足を補うために、アセチルコリン分解酵素の阻害剤「ドネペジル」を投与してみると、アセチルコリンが増加し、脳内炎症は抑制され、倦怠感や抑うつ症状もなくなった。

ドネペジルの商品名である「アリセプト」という認知症治療薬が、早期であれば治験効果があるのではないかと期待され、実際の患者さんに投与する治験が行われているという。

ところで、SITHー1マウスも、脳内のアセチルコリン産生は低下していたが、脳内炎症は生じていなかった。新型コロナウイルス後遺症で肺をはじめ全身から供給される炎症性炎症性サイトカインがなかったからである。一方、疲労したマウスは、炎症性サイトカインが供給され、脳内炎症が起きた。

過労死の原因で最も多いのがうつ病による自殺であるが、脳内炎症によりすでに正常な思考ができなくなっていたのだと考えられる。新型コロナ後遺症におけるドネペジルの治験がうまくいけば、抗うつ薬としてのドネジペルの利用も見えてくるという。

生理的疲労と病的疲労の本質的な違いは脳内炎症を起こしているかどうかで、脳の抗炎症機構が正常に働いていれば、病的疲労に至らない。しかし、生理的疲労を継続的に負荷すると、病的疲労に切り替わってしまう。「オーバートレーニング症候群」と呼ばれる疾患である。

唾液中のヘルペスウイルスのHHVー6を測定することにより、生理的疲労か病的疲労かがわかる。生理的疲労ではHHVー6が多く、病的疲労ではほとんどいない。しかし、この検査は一部の医療機関でしかできないうえ、検査料も高額だ。

著者は、疲労そのものをなくすことは得策ではなく、SITHー1をなくすことも危険であるとする。うつ病になりやすい性格の人は、真面目、仕事熱心、秩序やルールに忠実、献身的、責任感が強い、頼まれると嫌とは言えない仕事ができる人である。人類は疲労やうつとうまくつきあっていくしかないそうだ。

本書は、最新の疲労研究の成果を医学の専門家でない者でも読み解くことができるように書かれている。うつ病、新型コロナ後遺症の最新の情報も得られる。多くの人に読んでもらいたいと思う。




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