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春よ、来い

いただきますをする前の味見ってなんであんなに美味しいんだろう。

寒さ極まる冬に感じる春の暖かさが嬉しいのもそんな類なのかもしれない。
春になったら、夏の猛暑を予感して、暖かさへの期待はどこかに飛んでいくのに。

ここ一週間、春を予感させる暖かさが続いた。
おかげで、春の訪れを待ち望んでいる自分をはっきりと自覚した。
そりゃあ田舎の人が、春になったら山菜採りに行きたくなるのもわかる。

知り合いに
「高知に来て2回の冬を越そうとしてるんだけど、
大野見寒すぎて、わたし春をめっちゃ待ってるんだな〜って思ったんだよね。」
というと
「それもうユーミンやん!!」
と突っ込まれた。

確かに。
世代じゃなくても、わかるよ。名曲だよね。
比喩であれ、みんなよく春を待ち焦がれている。
そして大体、黄昏れたり、物思いに耽っている。

私も電車と目的地の行き来をしているときは、
そんな歌を聴いて黄昏れながら、寒さをどうにかやり過ごしていればよかったのだ。
電車は暖かいし、家も目的地も大概暖房が効いている。
それで気づいたら春になっていた。

でも、冬を越すってそんな甘いもんじゃないのだと、大野見での暮らしで思い知ることになった。
標高300メートルの朝晩の冷え込みも、底冷えする床も、隙間風も、消費の止まらない薪も。
古民家暮らしが相まった容赦無い寒さに、季節外れの暖かさを愛でるだけじゃ駄目だと怒られた。

そんなシティーガールマインドを引きずった私は
週に一度、同じ町の有機農家・中里自然農園の畑に立つ。
当たり前だが彼らの冬野菜は冬の寒さを味方に育つ。

あれはまだ冬至より1週間前だっただろうか。
畑仕事をしているときに食べた抜きたてのカブがどうも忘れられないのだ。
それは、土から抜いて数分も経ってない、
土が纏わりついてる小さなカブだった。

かじった途端に口の中に甘くはじける水分。
果汁とでも言わせてもらおう。
何かで味付けするのが失礼であるかのような
その強烈でやさしい甘さのせいで
私はなかなか素焼き以外に踏み切れない。


食べ方は、コンロかオーブンにいれてただ待つだけ。
いい焼き具合になるか、空腹の限界がきたら食べ頃だ。

季節を食べることは私が思っていたより
もっと感動的なのかもしれない。

果汁たっぷりの柔らかなカブの甘さに

ね、冬の寒さも悪くないでしょ?

って言われた気がした。

外は雪が降り始めた。
今晩は今冬で一番冷え込むらしい。

春を待ち望みながら、冬から逃げないために、冬を食べている。

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