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鹿の血を浴びた時、私は山に溶け込んだ

たった今、鹿の体内をどくどくと流れていた血は、私の服と顏に飛び散った。
まだ生暖かった。
あまり嫌な気はしない。


鹿が罠にかかったのは、罠を仕掛けて2か月以上たった日のことだった。
そのあいだ、幾度となく「けもの道」を見回った。

「見回る」とは、足跡や糞の硬さ・大きさ、木々に残された泥の跡、山の植生や周辺環境から獣の動向を探ることだ。そうして罠を仕掛ける。
もっと言うと、鹿や猪の行動パターンや生態を同じ目線で正確に読み取りながらも、それを獣に悟られてはいけない。
だから、山の中で着る服をなるべく洗わない猟師も珍しくない。
大事なのは、人間と猪や鹿の間に引かれた境界線を滲ませることで
猟師の存在が山に溶け込むことだ。

まだまだ獣との目線がズレている私のピントは、
獲物の姿をはっきり狙えていなかったし、ぼやけていた。
それでも、姿の見えない獣の痕跡をたどり続けた。
その末に殺めたメス鹿だった。

圧倒的な暴力をほかの命に振りかざすとき、
私は、動物としてのヒトの存在を意識する。

山の中に木枝が落ちているように、タヌキの糞が転がっているように、
山の中を鹿が駆け下りるように、猪が土の中のミミズを食べるように、
ハエが獣の屍を食い散らかすように、私は鹿を殺した。

自分に飛び散った血を、むしろ歓迎したのは、自分の中の動物性を
見出したことへの歓迎だったのかもしれない。

純潔で清らかであろうとするのは、人間と穢れの間に引かれた境界線をマジックペンで明瞭に引き直す作業でもある。
より良き人間であるために、こっちとあっちを線引きする。

野生であれ家畜であれ、生きものの血の中にいのちのエネルギーの源をみとめる観念は、むろんそうした生き物との日常的な交渉の蓄積のうえでしか形成されるはずがない以上、生業の比重が狩猟や牧畜から農耕へと振れていけばいくほど、その種の〈血〉の文化は稀薄となっていく。またそうした動きが極まっていけば、〈血〉の聖性は失われていくだけでなく、逆に〈血〉を忌避し、〈血〉の対極に位置するものが聖化され、それが人と自然を貫くいのちの座へと押し上げられてゆく。

祭祀と供犠の比較文化序説

倫理観が成熟した社会の片隅で、私は汚い自分と対峙する。
なぜなら、隙をつくと穢れのない倫理的で正しい人間でありたいと思うから。
それでいて、自分の中にある汚さに自覚的になる時、私は他人や社会の汚れに優しくなる気がしている。

鹿の血を浴びた日、私は山に溶け込んだ。
人間と穢れの間に引かれた境界線がまたほんの少し滲んだ。

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