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ソリューション・ジャーナリズムを試みる ―震災と原発事故の伝え方― scene51

 2011年3月11日に起きた東日本大震災。その直後から取材で被災地に入って突きつけられたのは、そこで暮らしてきた人たちの役に立てたのかという問いだった。あのときどうすればよかったのか?今、何ができるのか?試行錯誤を繰り返し、その先に見えてきたのが「ソリューション・ジャーナリズム」ということだった。「解決に導く報道」。ただ、課題を伝えるのではなく、どうすればいいのか、解決策を提示すること。そんなふうにも受け取られる言葉だが、私の考える「ソリューション・ジャーナリズム」は少し異なる。その記事や放送で「誰を笑顔にできるのか?」「誰を悲しませてしまうのか?」を思い描くこと、そんなふうに考えている。とはいっても、笑顔にできたら何でもいいわけでもないし、誰も悲しませないことだけを目的にしたら当たり障りのない番組になってしまうかもしれない。そこで重要な指針となるのが「あるべき未来」。福島県に赴任した私は取材を続けるうちに願うようになっていたことがあった。それは、福島県で暮らす人たちが『誇りを取り戻すこと』。地震、津波、原発事故。時には県外の人たちから忌避されるなど、さまざまな局面で傷つけられてきた人たちが「福島はいいところだ」と胸を張って自慢できるようになること。自分の仕事が「あるべき未来」とどう結びついているのか?自分の番組が福島県で暮らしているどんな人たちを笑顔にできるのか?そんな風に考えていた。しかし、見てくれたすべての人を笑顔にするような番組を作ることができたかと言われると難しい。自分の番組を見て悲しんだり、怒ったりした人もきっといただろう。

 伝える人が変われば、思い描く「あるべき未来」も変わる。それぞれが描く「あるべき未来」を指針に番組を作れば、もっと多様な番組になるのではないだろうか。ただ、そのためには気をつけなければならないことがある。それは、「定型を疑う」ということ。福島県に異動してきた2013年、原発事故や放射能、避難者などはその描かれ方が定型化していた。間違っているわけではない。だが、それぞれの言葉に対するイメージが制作者たちの中で固定化していたのではないだろうか。それゆえ、すでに日常を取り戻している人たちにとっては「それだけが福島じゃないのに」と苦しめることにつながり、「福島の描き方」という新たな問題が生まれていた。だからこそ、取材をするときはまず定型を自覚する必要がある。。取材をして得た情報をもとに番組の構成を検討する際、「定型にハマってない?」と問い直してみる。その上で、その定型のまま描いていいのか、重く描きすぎていないか、違う描き方はないか、もっと深められないか、異なる考え方はないか・・・。取り上げるテーマについて世間が抱いているイメージ、そこに対してメディアの伝え方がどう関わっているのか、自覚しながら番組を制作する必要がある。

 「定型を疑う」ことでおのずと見えてくるのが「もうひとつの視点」。原発事故の避難者について考えるのではれば、その一方で避難しなかった福島県民の姿も浮かび上がってくる。放射能に対して不安に感じている人の声を聞けば、福島県に観光客が来てほしいと願っている立場の人の考えも確認する。原発事故の被害者だけではなく、事故を防げなかった東京電力社員の存在を問い直す。そして、「もうひとつの視点」は、わかりやすい反対意見とは限らない。たとえば「被災地 極上旅」のときには、復興している姿を伝えたいというストーリーが軸になりながら、そもそも「復興という言葉で描かれたくない」という声を紹介した。復興している姿を伝えることの反対を素直に考えるなら、「復興はまだまだ」という視点をまずは想像するだろう。「もうひとつの視点」は、必ずしもひとつだけではない。自分の想像を超えたところにあることがある。そこに行き着くにはとにかく多くの人に話を聞くほかない。このときに特に注意しなければならないのが、「被害者」を取材するケース。ある問題が起きたとき、被害を受けた当事者は多くのメディアから取材を受けることになりがちだ。それぞれの媒体においては限られた報道であっても、総量になったときに偏ってしまうことだってある。だからこそ「被害者ポジション」ばかりを追っていないか、自覚的にならなければならない。別に加害者の肩を持つということではない。両者にアプローチしてこそ、課題は解決へと向かうはずだ。

 そして、今後のマスメディアに必要なのは「育てる」という動きだろう。現実に起きている課題を追う取材をしていると、こうすればいいという解決策がない状況に出くわすことがよくある。それをありのままに記録することで、その行き詰まりが伝わり、心を揺さぶるドキュメンタリーになるかもしれない。でも、記録するだけでなく、一緒に変えていくという方法もあるのではないだろうか。たとえば「被災地 極上旅」のマップ作りだったり、「ふくしまをパラダイスにするための会議(裏会議も)」のように復興の種を蒔くきっかけとなる番組を作ったり、現実を記録するドキュメンタリーという枠からはみだすことでこれまでとはちがうかたちでメディアが社会にいい影響をもたらすことができるかもしれない。記録することや伝えることを超えて、取材者もプレイヤーになり、社会を変えていく。それも「ソリューション・ジャーナリズム」のひとつだろう。

 そして、福島局で勤務した3年間で得た大きな収穫は「気づいてもらう」ということ。あるテーマについて取材をつづけ、番組を制作すると視聴者に伝えたいメッセージが見えてくる。ともすると、そのことをわかってほしくてコメントにして発してしまうことがある。でも、それは伝えるべきことではない。気づいてもらうべきことだ。「被災地 極上旅」では、番組冒頭に「被災地は悲しいだけじゃない、楽しいことだってある」と謳ってしまったが、本当はそんなことは言わずに、見終わった視聴者にそう感じてもらうべきだった。メッセージを伝えた結果、同じ思いを抱く人たちからは多くの賛同意見を得られたが、放射能への不安を抱いている人たちにとっては「不安を抱いていることを明かしてはいけないんだ」と追い込むようなことになってしまったかもしれない。その一方で、自分の想像を超えて多様な感想をもらえた番組がロックバンドくるりと相馬の人たちの交流を描いた「まちのうた」。風化がはじまっていた震災に対して「じぶんごと」という言葉が登場するようになっていたが、結局自分のことではない震災をじぶんごとにするのは難しいのではないか。では、どんな関係がいいのか?取材してきて見えてきたのは「友達」でいるという関係性だった。そのことについて、番組では出演者の一人がインタビューで答えてくれたが、ナレーションでは友達という言葉は使わずに、「何度も通ってくれること。それが被災地にとって何よりの力となる」と添えた。この描写が大きな反響を得た直接的な理由になったわけではないだろうが、視聴者の視点を1つに絞らなかったことでそれぞれの人たちがそれぞれの感じ方をしてもらえる余白が生まれていたのではないか。番組を見て何かにハッとさせられれば、そこから思考がはじまる。気づかされ、自分で考えたことはきっと心に刻まれることだろう。それがソリューションにつながる小さな種となるのかもしれない。

 福島局を離れることが決まった後、私はFacebookでこんなことを書いている。

原発事故があった福島への赴任、当初は大きな不安がありました。
(きっと皆さんの胸のうちにも今もある(もしくはあった)であろう健康のこととか)
でも、そんな大きな不安以上の幸せを手にすることができました。
福島に赴任できて、本当によかった。
(今だから言えるわけだけどね。笑)

震災直後から現地に入り、たぶんこの先二度と目にすることがない惨状をずっと見続けてきました。
そのときにディレクターとして何もできなったという無力感が僕の胸のうちにはあります。
その大きな借りを返すために、この3年間がありました。
もちろんまだ返しきれてはいないけど、ひとまずここで一区切りです。
ありがとうございました。

今もこの気持ちに変わりはない。東京に戻ってからも、少なくとも1年に1度は震災に関わる番組を制作しつづけている。さらには、このときに学んだことがその後の担当番組でも生かされている。その担当番組とは「ねほりんぱほりん」。MCの山里亮太さんとYOUさんはモグラの人形に、顔出しできないゲストはブタの人形に変身する赤裸々トークショー。「NHKが攻めている」とも言われるこの番組で、「ソリューション・ジャーナリズム」の視点をどう生かしているのか。もう少しだけ明かしたいと思う。

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