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みんなもそうだから、とかもっと○○な人いるから、とかそういうのいらない

よく学校行きたくないとか、~で具合が悪くなるとか、○○が苦手、とかいうと、

みんなそうだから
とか
もっと大変な人いるよ

とか言われるけれど、感覚って、ひとのうちがわにあるものであって、「あなたがみんなそうだから、とかいう権利はない」と控えめに言っても思うのです。

だって、わたしのなかにある感覚ですよ?
一般論とかその言っている人の感覚ならわかりますが。その心配してくれるコメントを自分が落ち込んだり何かあったときに自分に向ければよいことで。

比較じゃなくて、感覚。

嫌はイヤだし、苦しいは苦しい。
それがわがままだとか贅沢だという判断はまた別のことで、「感じる」ことまで他人が判断する必要はない。

感じることを禁じるのは、生きるための防衛本能を封じることだし、それって命を大切に、とか主体性が、とか自分の意見を、とか自分を大事にとかいう道徳からすごくかけ離れているってことに気づかないのかなぁ。

みんなもそうだよ、とかもっと○○な人がいる。
は事実かもしれない。

でも、感覚も事実なんだよね。

そして、たいていほんとにみんなもそう、という意味を理解している人は、感覚を吐露した相手にそういうことは言わない。

そういうことを口に出せる人はほんとはわかってもいないのに、口にしている。
わたしたちは大人になったからこう言えるけれど、その本質に気づきつつ、反論するわけにもいかなかったり弱っているこどもたちが、たぶん不登校より学校内にたくさんいると思う。

もっと気づく大人が増えればいいのに、と淡い期待は一応持ち続けていたりはします。

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