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公平と公正と平等

今回の内容は大体、これに書いたやつ。

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公平と公正と平等、これらは似たようなものと解釈される事があるが、根本的に全く異質の概念であり、特に公正と後者二つの違いは大きい。

まず後者の説明から入る。

公正は機会均等、平等は結果均衡であり、これらは競争とその成果の配分に対する立場のちがいである。

「公正」はルール上競争の有利不利が運と自力以外で極力生じないよう機会を均等にする一方、その競争の結果生じる報酬の不均衡は無条件で受け入れねばならない。

正しく競争されれば成果は大きくなるがその利益は一部に偏る事になる。

「平等」はどのような競争があったとしても、報酬には大きな差を生じさせず、結果を均衡させる。

報酬は均衡するが競争が生じる余地が少ないため成果自体が小さくなり、また必要とする者には行きわたらず不要な者には余るような過不足を生じる場合もある。

「公平」はこれらと違い、それぞれの場合に応じて足りない部分を補い、過分を削って相互の感情的な均衡を得るものである。

これはどういうことか、例を挙げていえば、「力の弱い病人・子供・老人が壮健な若者と同じ重さの荷物を持つのは労苦が大きく、病人や若者は子供や老人よりも食糧を多く必要とする。

よって、荷物をより多く持てる若者が弱者の肩代わりをし、食料配分も病人や若者へのそれを子供や老人よりも多くするなどして、それぞれの事情に合わせて相互の負担や利益を調整する」という感じである。

普通、一部を優遇する事は妬みを生じ、役務の負担は厭まれる。
しかし、それをするに正当な理由があるのであれば、それらに対する抵抗感は薄まり、むしろ積極的にそれを行おうということにもなる。

つまり、「公平」が担保されているか否かは構成員の『納得』が得られるかどうかにかかっているわけである。

逆に重いものを持てない者に重荷を負わせたり、重荷を負う若者の食糧割り当てを増やさない、あるいは重荷を負える若者にだけ配分して子供や老人に配分しないのでは、どこかに不平不満が起こってしまい「公平ではない」という事になる。

公平において、機会は完全に均等である必要は無く、結果として得られる報酬は各々の事情によって調整され均衡しない。

これは公正ではなく平等でもなく、そのどちらからも得られないものである。

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日本人は古来、公平を重んじる。

これは古代の律令で福祉を重んじたり、中世の復讐合戦や喧嘩両成敗法など、それぞれの負担や被害が同程度になるよう調整しようとしたり、近代になって生じた格差をなんとかしようと官民の様々な働きかけがあった事、何かを処罰するにも名誉感情を尊重した処罰が称賛を受けてきた事等からもわかる。

他方、日本人は公平を重んじるあまり、本来、公平でないものも公平と思わせればもろ手を挙げて賛同してしまう。

逆に、本来、公平なものも不公平と思わせれば総がかりで攻撃してしまい不公平を助長することになる。

このように、日本人が大体共有している価値観「大和心」を利用されれば、日本人は容易く操作され功利的道徳的有益性すら度外視して自滅への道をひた走ってしまうのである。

自らを知り、自らの望むところを知り、何がそれをもたらし、何がそれを遠ざけるかを理解する事が肝要である。




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