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良い浮き輪を見つける才能

宅配ボックスが開かないのです
 
という歌詞がすごく好きで、最近はあいみょんばかり聴いている。
彼女の曲は、青春時代の女の日記をチラ見してしまった生生しさがある。(青春の定義については前も書いた気がする。)
 
青春時代の女は、外見のピチピチ具合からは想像もつかないような、グロくてエグい衝動や欲求に振り回される。振り回されつつも、なんとか生活を脱線させないように、日々の欲望を日記に書く。
日記が書けない女はあいみょんを聴くしかない。日記が書けるあいみょんと、書けない人々によって需要と供給が成り立っている。

彼女の曲には、やたらと“死ね”だの“おっぱい”だのが登場していて面白い。(やたらと、と書いたけれど、ちゃんと数えたわけではないので定かではない。印象的だから、数多く感じるだけかもです。)
死にたくなる瞬間と「死ね」と思ってしまう瞬間は比例するし、巨乳であればあるほど、貧乳であればあるほど、おっぱいが気になるよね…。わかるよ…。
 
 
アーティストの川内理香子さんが大好きだ。
 
私は彼女と同世代なので、おそらく五美大展もしくは美祭で本物の作品は何度か見ている。見るたびに、あっ!この人!と思う。そういう絵が描けることこそ、才能なのだと思う。
 
大学卒業以来、彼女の作品を生で見ることが出来る機会は無かった。にも関わらず、ネットや雑誌で見かける度に、やっぱり一目で彼女の作品だとわかる。その圧倒的な作家性にいつもいつも「ひぇ~!」と思ってしまう。
生々しくて、美しい。あいみょんの歌詞のようだ。
 
彼女のドローイングに、「tits」というタイトルの作品がある。titsは、おっぱいという意味です。
 
ゆるんとしたボディのおっぱい部分に、人間の頭部のようなモノが二つ。千と千尋の「オイ…オイ…。」と飛び跳ねる頭部が、スタイリッシュにおしゃれになったような、ピンクと緑の頭部。
頭部以外はことごとくシンプルで、画面から飛び出ちゃいそうなほどのびやかだ。ああ、本物が見てみたいなあ…。
 
身体の接触があった誰かを想うとき、その人が触れた自分の身体の一部分が“心”となる。例えば、ある人に腕枕をしたなら、その人の頭を受け止めた腕の部分で、その人の事を想う。だから、身体を使えば使うほど、身体全体が“心”になっていく。
 
彼女のドローイングは、身体中で誰かを想う感覚で溢れている。触り、触られ、抱きしめ、抱きしめられ、今までに触れた全ての人を、自分の腕の中に並べ想い出す。I have you.という、所有者的な感覚。
 
そして、彼女の手にかかれば、人間の頭部だけではなく全ての生命が“心”のメタファーとなる。ウミガメの心、お花の心で、誰かを想う。いや、モチーフがなんであれ、その筆致、絵具の混ざりあい、重なり合い全てが生生しく、情念的なのだ。
 
情念を伝えられない、伝えきることが出来ない人は、彼女のドローイングを見るしかない。こういう感覚を、そのまんま、誰かに伝えることが出来たなら、どんなに幸せな事だろう。
 
心は柔らかいから。
誰の想いも、その柔らかさとのびやかさでしか乗せられない。
 
なすすべのない人々の、寄る辺ない感覚をのせて、彼女の作品は箱舟となる。どこかに行き着くかもしれないし、あまりの激流に翻弄されて消えていくかもしれない。
あいみょんの宅配ボックスの歌のように、せっかく辿り着いても開かないという事態もある。鍵を閉めてしまえば絶対に開かない。柔らかいはずの心は、その柔らかさを守るために施錠され、その人がそうと決めてしまえば、二度と触れることはできない。
 
名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つが、根をはり芽吹くような確率で、人と人は出会っているのかもしれない。
消えもせず、拒まれもせずに、想いが想い合えるなんて、奇跡のような出来事だ。
 
受け入れたり、拒絶されたり、一瞬だけでも触れ合えたり、そんな繊細な心の触れ合いを乗せて、あいみょんや川内理香子さんの作品は、未知の海域をゆく。溺れてしまわないように、彼女たちの歌や作品を浮き輪にしながら、私の心は漂流する。
 
唯一ラッキーなのは、良い浮き輪を見つける才能が、私にはあるという事だ。
 

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