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呂后悪女論に物申す

漢の高祖・劉邦の皇后だった呂雉(呂后)は武則天(則天武后)、西太后とともに中国三大悪女に数えられているが、個人的に見て、彼女は単に嫉妬深かっただけではないかという気がする。劉邦の側室、戚夫人の一件や、息子・恵帝の異母弟にあたる劉如意の暗殺などは褒められたものではないけれども、韓信や彭越といった功臣を粛清したのは劉邦の猜疑心が発端で、呂雉の悪行に数えるのは違うと思う(実際に手を下したのは呂雉だったとはいえ)。ただ、恵帝没後に一族を(劉邦の「王は劉氏に限る」という遺言を無視して)諸侯王に封じたのは将来の簒奪を企てているようで、ちょっと理解しがたい。(ただ、一族びいきは則天武后もやっている。則天武后も武氏による簒奪を企てながら、最終的には賢臣の諌めで思いとどまったようだ。呂雉は何も言わずに亡くなっているので、真意はわからない。)

呂雉

恵帝没後に即位した2少帝については恵帝の実子ではないという噂もあるが、真相はわからない。恵帝から少帝弘までの呂雉による摂政時代を、司馬遷は褒め称えている。この時代は、功臣粛清や反乱鎮圧が終わり、漢王朝の治世がようやく始まった時代だった。この時代に(漢王朝では)初めて、律令が制定されている。この時代は王陵、陳平、周勃といった有能な臣下がまだ健在であり、幼帝を抱えていても安定した時代だったように見て取れる。したがって、呂雉は政治手腕に長けた女性だったといえる。
簒奪について、呂雉が企てていたかはわからないが、幼帝は簒奪者にとっては都合がいい。しかし、呂雉の崩御後間もなく、呂氏一族は陳平・周勃らによって粛清される。有力な外戚の粛清はその後も繰り返されるが、いずれも簒奪の企てを理由としているものの、状況的に簒奪が可能な状況だったとはいい難い。呂氏の場合もそうで、皇帝は幼かったが、後の文帝をはじめとする有力皇族は大勢いて、簒奪を企てようものなら陳平・周勃が不在でも彼らが黙っていなかっただろう。

漢の正史、漢書。呂后の業績は歴代の后妃でも特別
だったようで、本紀に「高后紀」が立てられている。

劉邦の皇后、呂雉とその周辺をいろいろ考えてみた。嫉妬深かったことと一族びいきで悪女と言われるようになった呂雉だが、彼女は非常に優れた女性政治家だった。最近の調査研究によって、呂雉の人柄は見直されつつある。
なお、呂雉が悪女と言われる所以は儒教の国教化にあると考えられている。


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