見出し画像

滑稽 古代中国の洒脱な弁舌家たち

「滑稽」という言葉がある。ネガティブな意味も含めて「おもしろい」さまを表す言葉だが、当初、中国においては「弁舌さわやか」なさまを表した。初出は『楚辞』と思われ、司馬遷の『史記』や揚雄の『法言』などに見られる。司馬遷は『史記』に「滑稽列伝」を設け、弁舌でもって身を立てた偉人を顕彰しているが、彼らの多くは諧謔で人を諫めることを得意としており、比較的古い段階からユーモアやウィットを含有していたようである(ただし、元来の「滑稽」にユーモアやウィットの意味は含まれていない)。
『史記』「滑稽列伝」には淳于髠、優孟、優旃の3人が取り上げられており、後に東方朔、西門豹らが追記されている。本稿では滑稽の代表例として淳于髠、西門豹、東方朔を取り上げたい。

1、淳于髠
戦国時代・斉の人物。威王に仕えた。本は奴隷で、髠(こん)は坊主頭を表し、本名は不明である。稷下の学士と呼ばれる、斉のブレーン集団(現代の日本学術会議みたいなものか)の一人であった。読心術の名手だったという。
逸話として次のようなものがある。
威王の8年(紀元前371年)に楚の粛王は大軍を率いて、斉を討伐した。威王は淳于髠を使者として趙に派遣させ、その際に百斤の黄金と四頭立ての馬車と馬を十台分を持参するように命じた。淳于髠はそれを知ると身をそらせて天に向かって大笑いした。そのときに淳于髠の冠のひもが切れてしまった。
淳于髠を見た威王は「先生は持参する贈り物が少ないと判断されたのか?」とたずねた。淳于髠は「いえ、そうでもありません」と述べた。しかし、威王は「先生が大笑いしたのは何か理由があるからでしょう」と言った。すると、淳于髠は「先ほど私は東方からここに参ったのですが、道端で田の神を祀って祈願する者を見かけました。彼は豚の脚先ひとつと一椀の酒を持参して、「高い痩地でも籠いっぱい、低い肥地なら車いっぱい、五穀みなみな豊かに実って、たんまりと家がいっぱいになりますように」と述べておりました。私が王から持参を命じられた荷物を見て、なんと貧弱であるなと思い、王の望みがそれと比較して大きいと思いついに笑ったのでございます」と述べた。これを聞いた威王は急遽千溢の黄金、十双の白い璧玉、四頭立ての馬車と馬を百台分に変更させた。
淳于髠は趙の成侯に謁見して、成侯は斉に対して十万の精鋭と千台の戦車を貸し出してくれた。楚の粛王はこの報を聞くと、その夜のうちに引き揚げた。

2、西門豹
戦国時代・魏の政治家である。元来は性急な性格で、帯をわざと緩くして性急さを抑えたという。孔子の弟子・子夏の門下生であるが、事績から法家の祖と捉えられる。
次のような逸話がある。
鄴の令として赴任した西門豹は、まず地元の農民たちを集め、どんな苦難があるか聞いた。当時鄴では地元に伝わる迷信で、毎年河に住む神(河伯)に差し出すため、若い女性と多大な財産を巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人に差し出し、それらを河に沈めるという人身御供の儀式がしきたりとなっていた。これにより集められた金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどであったが、儀式に使われるのは1割も無いほどで、残りのほとんど全部は巫女たちが山分けしていた。また年頃の娘がいる家は逃げ出し、その田畑は荒れ放題となっていた。
儀式が行われる日、河辺には巫女達と2、3000人の見物人がいた。そこへ西門豹は見学したいと護衛の兵士を伴って参加し、「河の神の嫁というのを見せてもらおう。美しいか確かめたい」といって生贄の女性を連れてこさせた。しかしそれを見るや「これでは器量が悪すぎる。『もっと良い娘を連れて参りますのでお待ちください』と河の神にお伝えなされよ」と言い、「お怒りを買わぬためにも、使者には最も河の神と親しい者がよかろう」と巫女の老婆を河に沈めた。しばらくして「巫女が帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、弟子の女性たちを1人、2人と河に沈めた。さらに「弟子たちも帰ってこない。女では河の神への願いが難航しているようなので、次いで河の神に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い三老を河に沈めた。あまりの事に誰もが唖然としていたが、一人西門豹だけは恭しく、河の神がそこにいるかのようであった。
さらにしばらくして「おかしい、三老も帰ってこない。さらに次いでとなると、多額の金銭を集めた役人であろうか」と役人たちを沈めようとしたが、役人たちは「その任は何卒お許しください」と平伏して詫びた。その顔色は血の気が引きすぎて土のような色で、額を地面に打ちすぎて流血するほどであった。西門豹はしばらく待った後、「どうやら河の神は客をもてなして帰さないようだ。皆も帰るがよい。もし誰かが儀式をやりたいならば、私に話すがよい」と言った。役人も民衆も度肝を抜かれ、これ以降生贄の儀式は行われなくなった。

3、東方朔
前漢の武帝に仕えた政治家である。武帝に「今年22歳になり、勇猛果敢、恐れを知らず、知略に富んでいるので、大臣に向いていると思う」と自薦文を送ったところ、武帝に気に入られ、常侍・郎や太中大夫といった要職についた。
武帝に食事を饗されたときには、食べ残しの肉をすべて懐に入れて持ち帰ろうとして服を汚すのが常であり、下賜された銭・帛を浪費して、長安の若い美女を次々と娶り一年もたつと捨てて顧みないという暮らしをしていた。これは、采陰補陽という一種の修身法であったが、それを知らない同僚には狂人扱いされていたという。武帝はそれでも「朔に仕事をさせれば、彼ほどの仕事ぶりを示す者はいないだろう」と評価していた。
後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。唐代の詩人李白は彼のことを「世人不識東方朔、大隠金門是謫仙」と褒め称えている。
朔の博学については騶虞という動物を見てその名と遠方の国が漢に帰属しようとする瑞祥であることを言い当てたり(『史記』)、函谷関で武帝の行き先をふさいだ山羊に似た怪物を䍺と見抜き、酒を注いで消す方法を教えた(『捜神記』)などの逸話がある。怪現象の権威とみなされたせいか、伝奇を集めた『神異録』の著者に擬せられたり、『漢武故事』では「東方國獻短人。帝呼東方朔。朔至、短人指謂上曰、王母種桃、三千歳一子。此子不良。已三過偸之矣」、つまり西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んだであるとか、張華が撰述した『博物志』でも「西王母七夕降九華殿。以五桃與漢武帝。東方朔從殿東廂朱鳥中窺之。王母曰、此窺小兒。嘗三來盗吾此桃」と同じような荒唐無稽な逸話が東方朔について創作されている。60年ごとにある甲子年が3000回巡るという意味で、「三千甲子東方朔」とも称される。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?