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考古学小話集③

【粟鹿神社境内の古墳状隆起】
以前、兵庫県朝来市の粟鹿(あわが)神社を訪ねた際にびっくりしたのだが、本殿の背後にかなり大型の円墳らしきマウンドがある。裏に回ると、当時は藪になっていてよくわからなかったが、周溝らしきものも確認できた。
ここは遺跡地図では経塚となっている(不時発見らしい)が、周辺で行われた発掘調査の報告書を読んでいると、兵庫県の文化財担当者もこのマウンドが古墳である可能性が高いと考えているようだ。当時撮った写真を見る限り、自然丘陵としては不自然で、人工的に造られたマウンドの可能性が高いと思われる。試掘調査で葺石や段築が見つかれば確実だが、神域だし調査は難しいかな。

【神域と墓域とケガレ】
土生田純之先生の研究に、大神神社、石上神宮の例から神域と墓域は明確に分けられていたとする研究があるのだけど、滋賀県には神社の境内に古墳がある例がたくさんあって頭を抱えている。古墳群の中に後から神社ができた可能性もあるので、一概に反証とは言えないのだが。
ケガレ忌避観念が表に出てくるのはだいたい平安時代頃で、特に貴族の間でケガレ忌避観念の肥大化が見られ、物忌みの風習などができてくる。血の穢れを理由に女性を神事から遠ざけるのもこの頃からで、それ以前は神職でも女性のほうが男性より地位が高かったらしい。

【奈良盆地東南部の盟主墳】
大和古墳群の盟主墳は箸墓古墳→西殿塚古墳→行燈山古墳→渋谷向山古墳の順に築造されているが、西殿塚古墳と行燈山古墳の間に時期的空白がある。桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳がその空白に入るのだが、この2基は鳥見山麓にある独立墳で、大和古墳群と異なる系譜に属すると見たほうが良い。
両古墳とも大王墓級の規模であるが、大王墓に含めると、4世紀の前半〜中頃に一時期、王権が大和古墳群を築造した纒向の勢力から鳥見山麓の勢力に移っていたことになる。この2系統が同族なら、従来の墓域を離れて鳥見山麓に独立墳を造った理由がわからない。
4世紀はやっぱり謎が多い。

【考古学「だけ」で歴史を語る】
考古学「だけ」で歴史を語れるか。
近藤義郎先生がたしか試みていたと思うが、考古学で歴史を語ることは「できる」。ただ、考古資料で明らかにできるのは「集団の歴史」であり、「個人の歴史」は明らかにできない。木簡や墓誌などを除いて、多くの考古資料は無記名であるためである。
特定の「名のある個人」の生涯を明らかにするには、文献調査と聞き取り調査が必要になる。前者は歴史学、後者は民俗学の仕事である。考古学だけでは「個人」の歴史は明らかにできても、「名のある個人」の歴史を明らかにできない。また、考古学の研究法は「集団の歴史」の研究に特化している。
というのが私の所感である。

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