見出し画像

即身仏についてわかったこと

即身仏について調べていたらわかったことをいくつか書いてみる(堀一郎、戸川安章、松本昭、松田壽男の各先生の研究に基づく)。

真如海上人の即身仏

 1
即身仏を志した行者は一世行人という下級の行者で、火の管理をするため生涯妻帯禁止(ケガレ忌避のため)、ほぼ寺院の雑用係で、出世しても本山末寺の行人寺の住職にしかなれなかったとなかなか厳しい生活。しかし、即身仏を志すと上人号が授与されるなど、格段に待遇が上がったらしい(命と引き換えなので、それも悲しい)。ちなみに即身仏修行の一環として行われる木食行(穀類を経つ行)はトランス状態に入りやすくするのが本来の目的で、この修行を積んだ行人は祈祷時の霊媒を勤めた。堀一郎先生によると、酒田市の行人寺・海向寺で行われる「作祭り」では、一世行人に神降ろしをして作付けの託宣を得るという。

 2
即身仏誕生の背景に、弘法大師空海の入定信仰がある。空海自身は当時の記録によると火葬されたらしいのだが、空海の伝記が広まる中で、廟所である奥の院で現在も瞑想を続けているという信仰が生まれた(弥勒下生信仰と結びついた結果らしい)。さらに時代が下がると、空海が土中入定したという説話が生まれる(来日した宣教師(たしかルイス・フロイスだったと思う)が記録を残している)。
湯殿山系即身仏は、空海の入定説話の再現という側面があったようだ。江戸時代、出羽三山のうち羽黒山は天台宗に属していたが、空海による開山伝承を持つ湯殿山は真言宗を堅持した。江戸時代を通して羽黒山と湯殿山は係争を続ける(羽黒山は湯殿山を配下に置きたかった)が、そうした中で真言宗側のパフォーマンスとして即身仏信仰が生まれたと考えられるのである。
考えようによっては人柱である。湯殿山系即身仏は上人号を有するが、全員が一世行人という下級の行者で、高僧で即身仏となった者は一人もいない。
即身仏信仰の背景には、非常に泥臭い一面があったのである。

 3
即身仏が肉体を留めている要因の一つは水銀にあるらしい。即身仏を目指した行者は湯殿山で木食行に勤しんだが、湯殿山は水銀の鉱脈があり、そこに生える山野草は少なからず水銀を含んでいる。それを接種することで少しずつ水銀を体内に溜め込み、知らず知らず防腐処置を行っていたというのである。事実、ある即身仏の体内から発見されたネズミの死骸を調べたところ、高濃度の水銀が検出されたという(ネズミが即身仏を食害した結果らしい)。この際、即身仏そのものを調べられなかったのは、調査をした松田壽男先生が日本ミイラ研究グループに属していなかったため、即身仏そのものに触れる機会がなかったからだという。
以上に基づくと、行者は慢性的な水銀中毒になっており、土中入定する頃には意識障害も出ていたはずで、苦痛はそれほど感じなかったのでは、とも言われている。
なお、私が見た限りでは、入定時の年齢が高い行者ほど保存状態が良い。それだけ多量の水銀を体内に蓄積しているからか。
ちなみに、水銀が関わっていると考えられているのは湯殿山系即身仏だけで、それ以外の即身仏は特に水銀とは縁がないようだ。現在祀られている即身仏で、湯殿山系即身仏以外の即身仏には、偶然遺体がミイラ化した例も含まれていると思われる。

 4
即身仏について、一点引っかかっているのが土中入定。生きながら埋葬され、土中で経を唱えながら絶命した後、約千日後に掘り出されるわけだが、伝承として土中入定が語られているものの、現存する即身仏で明確に土中入定の事実がわかる例はない。例えば大日坊の真如海上人は土中入定したとされるが、伝承の域を出ない。本明寺の本明海上人は入定墓があったとされるが現存しない。菱潟の全海上人は地上入定である。
しかし、明治に入ってから入定(正しくは没後埋葬)した仏海上人は入定墓が残っており、その構造から「棺に詰められたおが屑が湿気を吸わなければ確実にミイラ化していた」と指摘されている。そのことから、入定墓に用いられる特殊な墓の構造が湯殿山の一世行人の間で伝承されていた可能性は高いと思われる。
なお、土中入定自体は盛んに行われていたようで、各地に伝承が残っている他、木喰山居上人の例など、実際に発掘調査が行われたこともある。ただ、善光寺行人塚の例など、即身仏を目指したと思われるのは稀で、多くは土中入定自体が目的と思われる。
(土中入定については以前noteにまとめているので参照されたし)

 付1
一口に即身仏と言っても、湯殿山系即身仏以外は肉体を留めることを目的としなかったケースが多いようで、入定後、偶然ミイラとなったことで信仰の対象になったと思われる(舜義上人、妙心法師など)。もしかすると、湯殿山系即身仏とそれ以外の即身仏は分けて考察しないといけないかもしれない。

 付2
即身仏に関連して、中国では肉身菩薩と称し、高僧の肉体を保存する風習があった。有名なのが禅宗の第六祖・慧能で、衣を着た状態で上から漆を塗り固めている。中国では各時代を通じて作られたようで、文化大革命時に破壊されたものも多いが、明清代のものが多く残っているようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?