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「空気が読める」と思っている(自分を含めた)人たちへ

 9月から始まった台湾留学も残り2ヶ月を切った。今年は年末の煌びやかで人々がふわふわしているあの空気感を味わうことができず、地に足がついた正月だった。一回体験していないだけで日本の正月感ももう忘れてしまったし、友達のストーリーを見て追体験することもできない。あの時期特有の全能感、トリップ感は肌でしか感じれないし、みんなそのゾーンに入っているという連帯感はある種の集団幻覚なんじゃないかと思う。言い過ぎだけど。
  
 日本にいた頃、自分の長所は客観的に物事を見ることができるところだと思っていた。集団を鳥の目で俯瞰し、「あ、この人は異常にエッチな会話に持って行きたがるな」とか、「あの人はうまく笑えてないな、誰かまずいこと言ったのかな」とか、性格とか、MBTIとか、とにかく自分は<分かっている>と思っていた。

 現代では、就活や会社で必要な能力として <場の空気を読む力> というのがよくあげられる。上記の通り、自分はなんでも<わかっている>し、<人のことを的確に分析できている>と思っていた。つまり、<空気が読める側>と思っていた。

 そんなことができて何になるのか。自分のことはわかっているのか。

 【長所:客観的に物事を見れる】なんてやつに俺は大事な決定権を握らせたくない。周りの顔色を上手に伺って、相手を怒らせずにそこそこの笑いをとって、その場をそこそこあっためて、そこそこ気に入られる。
 
それの何がいいんだよ。昔の俺、てめえのことを言ってるんだよ。

 斜に構えて、「あのバンドはメジャーにいって終わった」とか、「ファンが増えてきて大衆向けになったから好きじゃない」なんて思うな。評価できている自分をさらに俯瞰で見て自己肯定感をあげようとするな。斜めからも上からも見るな。てめえが全てのことに対してまっすぐ主観で評価しろ。

 俺はてめえがなぜ主観で物事を見れないか知っている。それは自分が何も成していないことに自信がないからだ。

 俺は大した大学に入ったわけでもないし、スポーツで天下をとったわけでもないし、大した文章も書けない。そんな自分がもし評価されている人物、作品に真っ向からぶつかったとしたら、自己肯定ができなくなる。矮小で、何にも成れていない自分を見つめるのが怖いんだ。

 だからどうした。人間が2人いるだけだろ。偉そうに何を言っているんだと思うかもしれないが、私も俯瞰でしか物事を語れないただの”葦”のような人間である。そういう意味ではあなたと私はフラットな立場だし、もしあなたが素晴らしい人間だと自負していても、ただ私とあなた、二人の人間がいるだけだ。

 自分の長所を、空気が読めることだと思っている(自分を含めた)全ての人たちへ。そんなつまらない理由を、かけがえのない自分の長所だと思うな。誰だって自分の目で物事を見て、触って、感じて、そして自ら発言して、アウトプットを繰り返すことで自分という土壌を肥やすことができる。人に講釈を垂れるべきでないのは重々承知だ。ただ、私は私と何らかの縁で出会ったかけがえのないあなたちの自己表現をもっと見たい。ただそれだけの願いである。

 

  

 

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