第29回: 文字の力・動画の力 (May.2019)

 2018年におけるYouTubeの最大顧客はインド人だった、という記事を見た。携帯基地局は着々と増強されているようだが一向に通信環境が安定しない当地Bengaluru、利用者と通信量の増加がそれを上回るペースで伸びている為、と言い訳されるが、確かにそんな実感はある。暫く前まで小さく見づらい白黒液晶が付いた "Nokia" が主流だった庶民も今や皆が皆スマホを持ち、暇さえあれば所構わず大音量で動画を見て笑っている。農村でも畑仕事のお供には動画が欠かせないと聞く。破格の4Gデータ通信料にBollywoodの圧倒的なコンテンツ力が相俟って、携帯通信網経由での動画ダウンロードは日米中を上回る。動画はWi-Fi環境で、と躾けられた平成時代の使い方では、月々の契約データは1割も消費できない。

 何かを検索すると結果が動画で表示されることも多く、子どもらは電波が届く限り延々と画面を眺めている。料理や工作などなるほど流石、と思うテクニックもあるが、ゲームの実況やおもちゃの開梱は冗長に過ぎる。そこまで何でもかんでも動画にしてどうするんだ、と感じる一方、昭和以来のテレビがパーソナライズされただけとも思える。“本を読め” と言う自らの片手にはスマホが握られているのも事実だ。

 近所の路地に “ポイ捨て・立ちション厳禁” と大書された壁がある。その下、ちょうど良い高さに、十字架と “三日月と星” と梵字Aumが3つ並んで描かれているのが傑作だ。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、それぞれの信仰の象徴を描いて、“あなたは神様に向かってそんなことできますか?” と訴えているのがいかにもインドらしい。どれだけ大きく英語で書いても理解できる者は限られる。見つかれば即摘発のSingaporeと比べ、“Fine Rs.500” の警告がどれだけ抑止力になるかは疑わしい。

 早朝、商店街の閉まったシャッター前には英語・Hindi・当地のKannadaの有力紙を始め、近隣のいくつかの言語による大衆紙も含め多いところは20紙ほどの新聞が並べられる。都心部では大型書店がちらほら目に付くのも "読みたい" 需要があるからだろうし、棚にはHindiやKannadaも並ぶ。決して文字の文化がないわけではないが、言語の多様さと識字率から読めない・読まない人口がそれなりに居ることを考えれば、文字による訴求は対象も影響力も限定されてしまう。

 些細な事象もあれこれ目に付き気に病む日本人に対して、真後ろからクラクションを鳴らしてもスマホ動画に夢中で振り返りすらしないインド人。視聴覚、味覚・嗅覚、触覚の何れをとっても “ノイズ” に溢れる当地、人々は自らに心地よい情報のみに反応し、他は無きが如し、逐一気に掛けないように鍛えられている。毎日通る目の前の壁に張り紙があっても風景の一部、注意深く読んでその通り行動する、などということはあり得ない。面と向かって頼み事をした相手から “OK, no problem” と返されても何かが起こるのを待ってはいけない。悪意をもって騙したわけでもなく、英国統治300年の名残り、目前のうるさい相手をとりあえず黙らせる術は皆が知っている。

 当地で業務改革や新規施策を指揮する際、どうやって目的の活動を担当者が “自然とこなせる” ものに作り替え定着させられるかが知恵の出しどころになる。日本企業のオフィスや工場を訪れて周りを見渡すと、様々な努力を重ねてきた会社ほど、各所に張り紙がしてある。労働者層が読めるように現地語で記しているため、中には黄ばんだ張り紙の前で全く関係ない作業をしている現場もあるが、読めるはずの現地人幹部ですらただの風景の一部として気にしていない。日本人が管理しているはずの環境が既に “インド化” しているなら、いくら口煩く日本的経営を説いたところで実現は望むべくもない。

 新たな行動を促すには “相応しいお手本” を見せるのが効果的だが、“背中を見て盗め” という昭和の手法は日本ですらもはや通用しない。スマホも動画も当たり前の世界、言葉や文字ばかりに頼らずとも、技を伝える術はあるはずだ。

 (ご意見・ご感想・ご要望をお寄せください)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?