第37回: 間合いの取り方・余白の価値 (Aug.2019)

 庶民の娯楽として定番の映画、予約もスマホで簡単にできる。先日子どもと訪れた映画館はモールの最上階で設備も新しく日本と遜色ない上、プレミアムシートも数百円。一通りの予告編が流れた後、さぁいよいよ、と期待するタイミングで全員起立し国歌が流れるお約束の儀式を経て、2時間足らずの本編が始まった。どっと笑いが起きたり、誰かが悲鳴を上げたり、拍手と共に歓声が沸いたり、演者が傍で見ていたらさぞかし気持ち良いに違いないといった反応がそこここで起こる。が突如、セリフの途中でプツッと音と映像が途切れた。

 停電には慣れた身、特に驚くことはないが、映画館で何故、と思うと同時に照明が灯り休憩が告げられた。そういえば狭い航空機内でも絶えず歩き回るインド人、日本人のように “じっと大人しく座っている訓練” は受けてない。際限なく続けられる得意のおしゃべりも許されない中、黙って着座しているのはせいぜい1時間が限度、という配慮なのか。

 休憩終了のアナウンスの後、今度は暗転と同時に唐突に上映が再開された。しかも、明らかにいくつかセリフが飛んでいる気がするが、そのまま話は続けられる。日本であれば多少巻き戻して前のシーンなどから再開されようものだが、上映する側にそんな配慮はないし、見る側も何ら気に掛ける様子はない。どっちもどっち、多少細部が欠けても大勢に影響はないのだろう。

 街中の行列や渋滞は思わず “近いよ!” と声が出るくらい、人と人、車と車の距離が近い。間を空ければ横入りされるから、と聞けばそれもそうかとは思うが、会社や学校の駐輪場だけは妙に綺麗にバイクが並んでいるのはどうも気になる。狭くない国土で万事がChaosにも拘わらず、局所的に緻密に過ぎる。後から来た者が僅かな隙間も見逃さずに押し込んだ結果として目が詰まるのか、それだけきっちり物事を捉える視点があるなら他にも応用できそうなものだが、残念ながら仕事や時間がそこまで精緻に扱われることはない。日本人感覚での懸念・嫌な予感は、概して裏切られることなく “あーぁ、やっぱり...” の結果に陥る。

 インドに通い始めた2010年頃はスマホは今ほどの万能ツールではなかった。何時間かかるか読めない車移動や訪問先や空港で予期せず生じる空き時間をどう過ごすか、安定した回線の下で腰を落ち着けてPCを開いて、と環境が整うのを待っては仕事が進まず、積極的にスマホを活用し始めた記憶がある。時差を考えて国際電話を掛けて、などとタイミングを測らずともいつでも世界中にメッセージでき、今や唯一平穏だった機内ですら “圏外” が許されなくなってきた。馬上枕上厠上などと優雅にアイディアを醸成できる空間もない。その意味では、いつでもどこでも着信音は最大のまま、面談中でも躊躇なく電話が鳴れば応じる当地の “マナーモード” の有り方は、現代における必然なのかもしれない。課題を見つけたら、考えるより先にまずは知ってそうな誰かに相談して、その場で対応を取るのが早い。

 古今東西の工場が等しく悩むタクトタイム短縮施策。“乾いた雑巾” とは程遠いにも関わらず、新たにコチラを立てれば、昨日までのアチラが立たず、何も進化しないのが当地の常。わざわざフィードバックを求めて電話してきたヘルプデスクに何かを訴えたところで対応されることはないし、転送されてお客様担当が現れれば返って別の問題を引き起こして帰っていく。多少なりとも賢い人間が周りを見渡せば “よりよくする余地” は無限に見つかるが、そこに誰が時間と労力を割くかが問題だ。

 茶の湯も書の道も、一つひとつの所作の合間に一拍、心を落ち着かせ静寂を楽しむ瞬間がある。室内楽では互いに目を見て調子を整え、呼吸を合わせて次のフレーズの音を揃える。インドも古典舞踊などに似た世界観があろうが、日常の中で間合いや余白を楽しめる機会は少ない。職場ともなれば出自も目指すものも異なる者同士、阿吽の呼吸など期待すべくもなく、他人を慮ることは稀だ。元来、命じる者と命ぜられる者が明確に分かれ、それぞれがそれぞれの役割を担う前提だから、寧ろ隙を見せて出し抜かれることへの懸念の方が強い。Tea breakに甘ったるい紅茶が欠かせないのも分かる気がする。

 (ご意見・ご感想・ご要望をお寄せください) 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?