第43回: 不用意に死なない作法 (Nov.2019)

 保安・警備のプロ集団と知り合った。特殊部隊で一流以上の訓練を受け、対テロ潜入捜査や要人警護など実践経験も豊富な猛者たちだが、話をすれば奥さん・子ども思いの頼もしい夫・父親でもある。興味本位で話を聞く内、平和な日本では文字や映像を介してしか意識し得ない危険が今も身近にある事実を改めて認識した。

 当地Bengaluruのコリドー街Church Streetや映画にもなった商都MumbaiのTaj Mahal Hotel/ Chhatrapati Shivaji Terminusの事件はさほど昔話でもなく、インドの北東部・北西部には未だ日常とテロとが隣り合わせの地域もある。日本人にはColombo/ Jakarta/ Bangkokの爆破が記憶には新しい。欧米では銃乱射や繁華街・交通機関を標的とした事案が絶えず、日本でも暴漢やら暴走車による “テロ” が起き、特定の誰かを狙ったのか無差別的なのか、他害行為なのか自爆を伴うのか、類型化も想定もしきれない危険が溢れた現代において、絶対に安全な空間はもはや存在しない。

 これまで少なからず世界各国・インド各地を旅した中で差し迫った危険に出くわさなかったのは、単に幸運だっただけなのだろう。近年は専らクライアントか子連れの旅だから、訪問先と時間帯は熟慮の上で計画的に行動してはいるが、それでも繁華街や空港では人や空気の流れが視界の隅で常に気になる。人の多い所では決まって機嫌が悪くなる、と家族によく指摘されるが、自分の身一つでないから尚更、注意を払って払い過ぎということはない。

 このところ毎年どころか毎月のように “数十年に一度” の災害に見舞われる日本、気候変動が主因とすれば今後の激甚化への備えも進むのだろうが、議論は公共政策に終始しがちだ。戦後70余年、幾度かの天災・人災を経ても社会秩序は保たれ、今も世界一安全な国と言われるのは、良くも悪くも均質な国民性に因るところが大きい。一般的な日本人が不審者・不審物に敏感になるのは、オリンピックや移民拡大を経て “見た目が明らかに異なる人がすぐ隣に居る” ことに慣れてから、とすれば、テクノロジーを積極的に導入した方が良い。

 在外の日本人学校 (当地は土曜日午前中のみの補習校) は “年2回の避難訓練” が外務省より義務付けられているという。インド・Bengaluruで日常を過ごし、現にテロが起きている周辺国を今後も訪問・滞在する機会がある子どもたちは有事の際、生存確率を少しでも高める正しい所作を知っておくべきだ。少なくとも好奇心に任せ不用意に騒いで死んだりしないだけの “作法” は体得しておいた方が良い。そんな思いに共感を得て、先日の補習校の避難訓練に少しだけ違う味付けをするお手伝いをした。

 日本型の避難訓練は火災を想定して安全な場所に一斉避難する。先生の指示に従って整然と、おさない・走らない・喋らない・戻らない、という約束を守りましょう、というのが作法だが、これが有効な場面は極めて限定的であることをまず認識する必要がある。自らの命を捨てる覚悟で武器を構えて突入してくる者の目前に、丸腰で無邪気な子どもたちが集団で現れれば格好の標的、壮絶な犠牲を払うだけだ。“相手は誰でも良い” 無差別型犯罪に不幸にも遭遇してしまった場合、扉を閉じて机や椅子で塞ぎ、身を屈め息を潜めてやり過ごすしか出来ることはない。

 最も卑劣な武器と言われる爆発物、黒い球や赤い筒からチョロリと導火線が伸びるのは漫画の世界だけ。今や身の回りのあらゆるものが爆発物となり、接触やタイマーは勿論、悲鳴・嬌声、携帯の電波、人が歩く振動や陰影等、周囲にありふれる環境変化が起爆スイッチとされる。いくら近くに大人が居ても、好奇心を煽られた子どもが手を出せば当然に、誰かに伝えようと声を上げても一貫の終わり、となる。専門性を欠く引率者頼みではとても間に合わない、子ども自ら “作法通りに振る舞う” 以外に身を守る術はない。

 不審者・不審物の判断基準は、1) その場にいる誰かの知り合いや所有物でなく、2) 不自然に存在している人・物、と教えた。少しでも疑わしく感じたら、静かにその場を離れて大人に伝えるのが “作法” だ。子ども自身が危機を察知して退避できる作法を、習い体得する機会を提供していきたい。

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