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働き方改革の瓦解を剰余価値から考える

苦しみからの改革と改革からの苦しみ

働き方改革が叫ばれて久しいのではないか。

様々な報道がされ、様々な形でブラック企業が登場した。

ブラック企業では特に長時間労働が問題視され、その暗黒が世にさらされれば著しいレピュテーションリスクが顕在化する。(個人的に4つ目の映画が好きです)。

折しも少子化に起因する人口減少から、労働生産性の向上はGDPというマクロ的な視点、働き手の不足という労働市場的な視点から、資本主義の文脈の中で必要となった。

こうした様々な社会的文脈により、企業における働き方改革は至上命題となる。その文脈において、労働者は短い時間で高い成果が求められる。

しかしながら、働き方改革が幸福に繋がるとは限らない。限られた労働時間の中でも求められる成果は社員を疲弊させ、イノベーションへの活力はおろか、業務の継続的改善へのモチベーションすらも奪う。残業時間の削減は、家計を圧迫するそうだ。

かねてから疑問を抱いていたこの働き方改革というものに対して、マルクスの理論を拝借し、問題点を考えたい。

剰余価値論

マルクスによれば、労働者への賃金は、労働力に対する交換価値として支払われる。その賃金は労働者が労働力を提供できる限り、言い換えれば生活する上で必要な額を払えばよい。一方で労働の結果生み出される商品には、その商品独自の価値がある(労働価値説)。つまり、生活に必要なだけの賃金を労働者に与え、後は酷使し、商品を生み出し続ければ、圧倒的な利潤を資本家は得ることになる。労働力は使用すれば使用するほど価値を生む特殊な商品なのである。労働力に対して、その使用により生み出された商品による価値、つまり資本家の利潤を剰余価値と呼ぶ。

労働者が交換価値としての賃金を得るために必要な労働時間を必要労働時間といい、その時間を超えて働かせる時間、つまり資本家が利益を得るためだけに働かせる時間を剰余価値労働時間という。こうして利潤のために絶対的な時間を確保し、資本家が得る利益を絶対的剰余価値という。

しかし、CPUのスペックを超えた高付加処理を実施すればシステムが想定通り動作しなくなるのと同様に、人の使用にも限界はある。労働時間の長時間酷使が問題になるにつれ、工場法などの成立により、1日の労働時間に制限が発生していった。

その結果生まれるインセンティブは、必要労働時間を減らすことにある。つまり機械化により、限られた労働時間で大量の商品を生産させることで利潤を確保した。例えば10時間という時間の中で労働者の賃金に相当する商品を短時間で生産させ(実質的な必要労働時間を短縮する)、残りの剰余労働時間で利潤のための商品を生産させる。こうした生産性の向上により資本家が得る利益を相対的剰余価値という。つまり、生産性の向上は資本家の利潤に直結するものであり、決して労働者の特になるものではない

労働者保護と残業代

マルクスが思想と理論を形成した当時は資本主義の本格的な形成期であり、労働者保護という概念が希薄であった。

それからマルクスが世に放った資本論、不満を持つ労働者たちの社会的要求、人権意識の浸透、労働の高付加価値化による労働者酷使自体の組織論的非合理化など、様々な文脈から労働者保護が進んだ。

その結果生まれたのが残業代である。つまり賃金は、翌日生きるための生活に対する価値だけでなく、商品として使用された時間に対して支払われることになったと言える。労働者保護の進展と資本主義の進展により、賃金は労働時間に対する対価という印象を濃くしていった。

保護が図られず、違法に残業代が支払われないというケースも確実に存在するが、少なくとも現代の大企業の多くでは残業時間は労働基準法の順守という観点から支払われている。無論、裁量労働制のようなケースは除く。

つまり少し前までは、働けば働くほどに労働者は賃金を得ることができたのである。その中で労働者は望む、望まざるに限らず、長時間労働の中で成果を残していったといえる(当然、残業時間の隠蔽などといった反論は予想されるが、本記事は労働時間の削減の問題点に焦点を当てており、働き方改革の実行・順守そのものの問題には触れない)。

剰余価値説から考える問題点

一昔前までは働けば働くほど残業時間が発生し、それに見合う報酬を得て労働者は成果を残していた。その意味では、働いた時間に対して見合った給与が支払われている時点で、絶対的剰余価値による搾取という理論は崩壊していたといえる。

しかし、ここに対して働き方改革により、残業時間の制限が入った。つまり労働者は、成果を残すために時間を行使することが出来なくなったといえる。ここでのポイントは、労働時間は強制的に短縮されたにも関わらず、求められる成果が変化していないということである。それは、生産性を向上して短い時間で高い成果をあげるという言説から容易に伺える。要は、早く帰れ、しかし結果は維持しろ、という皆が苦しむ縁木求魚である。これはビジネスモデルが変化していない、つまり利潤を得るために必要な成果の量は変化していないのであるから、企業からすれば当然の要求といえる。

ここにおける最大の問題は、少なくとも賃金という観点において、労働者には一切のメリットがないという点である。今までであれば残業代を得ていたため、Aの成果物を出すことで30万円の手取りを得ていた。しかし残業ができない場合、同一品質のAを出しても20万円の手取りしか得れないことになる。全体でとらえると、残業時間の削減に伴う労働時間の短縮により、企業の支出は抑えられつつ、より多くの利潤を手順を企業は手にすることになる。つまり、働き方改革においては、労働者の利得が低下し、企業の相対的剰余価値のみが上昇しているといえる。これは、現代の搾取とも捉えられる。搾取した結果誰が得するのか甚だ疑問であるが。蓄えられた内部留保はボーナスという形で労働者に還元されるかもしれない。少なくとも短期的な視点において、労働者に利得はない。

一切の労働者への賃金的なインセンティブが無い中で行われる働き方改革には、その担い手となる労働者は得をせず、短い時間で多くの成果物を得て支出が下がり、企業のみが得をする図式が完成している。この時点で、労働時間に対して給与を提供する固定報酬を前提とした働き方改革は、図式として崩壊している

現場社員に働き方改革へのポジティブな傾向が生まれず、規則による脅しによって順守させるという異常は当然と言えよう。ここに働くことだけが価値ではない、余暇の楽しみという言説を持ち出すことは、はっきり言えば企業の責任放棄と捉えられる。散々使い倒しておいて、都合が悪くなれば綺麗事で逃げている、と受け止められても仕方無いのではないか(お金を払わずにより成果を得ようとしている時点で、市場の理論に適せず悪くなったともいえる)。

固定報酬型の限界とこれから

ここまで企業を悪く言ってみたものの、これはメンバーシップ型雇用を前提とした固定報酬による給与形態が限界に来ていることの表れともいえる。これまでの社会では組織の構成員であることに給与が支払われていた。その中では明確な成果物の定義は不要であり、存在し機能を果たしていれば良かった。

しかし現実、多くの金銭は対価を得ることにより支払われる。つまり、市場経済下では、必ず成果が求められるのである。これまでの雇用形態でも、市場の中に企業が存在する以上、絶えず成果は求められていた。その中で確かに各種ロールにおいて要求される成果物はあるにもかかわらず、その定義の難しさから目を背け、凡その事業規模から構成員数を予想し、仕事を与えていた。そこに、実際に生み出さなければならない「成果」の数と予定していた人員数との間にギャップが生まれることは当然と言える。

このギャップは各個人の能力と圧倒的な長時間労働で埋めていた。しかし、社会の多様化に伴う求められる成果の多様化など、様々な背景からギャップを埋めることに限界が訪れた。更にSNSの発達によりギャップが埋められずに苦しむ声が洪水となり、これまでの方法論は完全に瓦解した。すでに瓦解していたものに光が当てられ、瓦解が明らかになったとも言えよう。

突き詰めていけばすべての仕事には成果がある、と私は思料する。その成果に対して賃金が支払われるという姿は、非常に自然な形態であると考える。その難しさは2000年代の成果物報酬制度導入の失敗が示している通りであるが、決められた時間を過ごすことを前提とする、固定報酬型の限界は既に提示した通りである。成果物報酬一択であるというつもりはないが、昨今のジョブ型導入の動きを含め、転換点はとうに来ている。

崩壊か迷宮か。それだけの選択である。



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