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言う美学、言わない美学

 皆さんはしゃべることは好きであろうか?

 筆者はもちろん好きである。そうでもなければ毎日投稿なんてする気も起きなかったし、なんならnoteというコンテンツで発信することもなかっただろう。まぁnoteはしゃべる感覚で書いているわけではないけれども。

 しゃべることが好きだからと言ってしゃべることだけをしているわけではない。何が言いたいかというと、人の話を聞くということも好きということである。

 筆者が思うに基本的なcommuicationにおいては、双方がほどよくしゃべって、ほどよく聞いて、いわゆる言葉のキャッチボールをすることが楽しいと感じている。マシンガントークはラジオパーソナリティーから聞くだけでいい。

 それでも、話を聞くことが好きという人もいる。その気持ちもわからなくはない。私も(面白い)話を聞くことは好きだからである。ここでなんだか伏せたように面白いというwordを使ったが、ここにはいろいろな意味合いを含ませている。内容が面白いというのは、もちろん笑って聞くことができる話ということは想像に難くないだろう。それだけでなく、自分の興味がある分野に対して深い造詣を持っている人の話、自分が今まで知りえなかったような話というものは総じて面白いと思っている。

 と、つらつらと聞き手側の話ばかりをしてきたが、結局は話し手がいてこその聞き手である。話してくれる相手がいないと聞き手は洋ナシなのである。

 話したいことは何でもいい。何でも聞いてやるから。これほど強引で脅迫する言葉はない。

 話すということは圧倒的なまでのspontaneousな発言なのである。こういうことを強制していい場面は、自己紹介の場面くらいなものである。(多分もっとあると思うけれどもとりあえず一つ例を挙げるとするならこれくらいなものだと思う。)

 こうやって何でもかんでも発言させることはむしろ、危険である。それは発言にはリスクが伴うからである。しゃべればしゃべるだけ、危険性は高まる。発言一つ一つに対して揚げ足をとってくるような人だっている。発言は細心の注意を払ったほうがいい。特にSNSのような不特定多数にみられるような空間では。

 これが「言わない美学」である。世の中には隠しておいたほうがいい事だってある。すべてをさらけ出そうとすることは間違っていると結論付けてもいいほどに。

 ただ、すべてをさらけ出すことは根源的にはできないという見方もある。誰しも、他人の腸'はらわた'までのぞき込むことはできないというように。だから、しゃべりつくすことに徹底してもいい気はする。喋らなくてもいいよなと、自分で納得してしまうことはもったいない。そういった発想に至るまで発言に気を使ったのであれば、逆にそれは発言に値するような気がする。

 これこそ、「言う美学」とでも呼ぼうか。喋ってすっきりすることはしゃべってしまったほうがいい。言葉に出して、自分の中から解放することで、その事柄そ存在領域が広がって、小さな思考から抜け出せる。新しい考え方、概念が向こうからすり寄ってくるかもしれない。

 こういった発言に対する美的感覚をこれからの人生養っていきたいものである。

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