自分で学んだことよりも、学ばされることが多い
今日はいきなり本題から。
生まれて間もない頃。そもそも学ぶという概念に出会っているかどうか怪しい。赤ちゃんが言葉を覚えるのは、聞いた単語を辞書引っ張ってきて覚えるなんて思ってたら、それは、機械学習のやりすぎである。単語を単語として把握して覚えることは相当高度なテクニックであって、幼少期は単なる音の塊を何らかの意味を持っているものとして、指差しして言葉を発する。あるいは目で見て訴えかけてくる。成熟しきってしまった今から思えば、逆にうらやましい能力ではあるが。。。
小学生の頃。先生という存在からacademicなことを教えてもらったり、人と人との間のこと、集団というものでの振る舞い、知識を教えられる。この辺りから疑問に思ったことを自分から探しに行こうとする優秀な子たちもいるけれども、基本的には教えられることがほとんどである。図鑑にドはまりしている子供というのもいるので、そういう子がクイズ王、雑学王なんて言う風に呼ばれるのだろう。
中学生。個人に対する行動の制約がそこまで外れるわけではないが、若干その意思が通ずるようになるので、学びの主体性はここから本格的に始まっていくような気もする。特に、高校という受験しないと入れないような将来が待っていたりするので、学びのレベルの選択が自由にできるようになる。ただこれも、あくまで与えられること、教えられることが多いということも事実である。
高校生。自由度が今まで以上に飛躍する。行動の幅が広がることで、その分中学生までの経験では語れないことを経験することになる。新しい出会いは常に新しい学びである。そして、ここから、社会に出るのか、大学というacademicの道に行くのか。大きな選択、決断をしなければならない。だが、正直この選択を自分は流れのままに、なすがままに行った。この段階で自分の最良の選択を行おうとするにはあまりにも経験が足りなかった。学んできたこと、学ばされたこと、そんな分類をする余地もないくらいに。
そして、大学生。圧倒的自由。全てを自ら選び、すべてを己の責任として、一人の人間として、生きていくということを大いに実感させられる。この時点で齢18(19)である。我々は多くを学ばされた。
自分で得た学び、積極的学びは、それを生活に生かしたいと考える。当然である。そうでなければ学んだ意味はない。使っていこう。では、与えられた学びは生かそうと考えるのか? 結論わからない。基本的にそういった知識は自分の中にとどまっている長さも短いし、それを自分事としてとらえないことも多いので、活用しようという発想に至らない。となると受動的学びに意味はないのか?
こういったことを、生かそう。無駄だったと考える前に、生かす術はないだろうかという風に考えてみよう。受動的学びを、能動的に活用していくようにすると、何か人生が楽になるヒントが見つかるかもしれない。
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