自他ともに垣間見える矛盾を、甘んじて受け入れながら生きる
年を重ねれば重ねるほどに
無邪気な子供の頃とは違い、大人になると、知識や経験を経て様々な含蓄を蓄えた一人の人間として、社会に羽ばたいていくことになる。また、その社会の中で多様な考え方に触れることになり、より深い思考をめぐらすことで、生き様を見定めていく。
昔は、きっとそうやって、人と人のやり取りから考え方、人生観を吸収して、自己に反映しながら生きてきたのだと思う。それも直接的なやり方で。
経験や体験が変容している
経験や体験が非常に重要であることは間違いない。しかし、それが今と昔でで形を変えているということは言うまでもない。我々人類は様々な媒体から体験を得るようになってきている。それが架空のものからより現実味を帯びて、実際の体験を差異ないものになってきている。
それだけに過剰供給されているとも考えられる。過剰供給によって弊害ももちろんある。
有限の時間に対する、経験のオバーフロー
とはいえ、人には寿命というものがあり、その寿命の中でできることなど、当然限られている。それにもかかわらず、世間からはあふれんばかりの情報がやってくる。多種多様な考え方が個人の思考に侵食してきている。そういったことを自覚する間もなく、矛盾した施行に常にさらされることになってる。
ディベートは矛盾のぶつけ合い
そんな中で、ある世の中の事柄に対して、対立する二つの考え方をお互いに語り合うゲームが存在する。それがディベートである。それが個人の信じる考えかどうかはさておき、形式的に相反する意見を貫き通したまま、どちらが正しいのかということを、あらゆる知識、根拠を持ち出して、白熱するものである。
こういった議論に関しては、昔から行われてきたものであるし、多様性などと騒がれる以前から、人々の考え方というものは三者三葉、十人十色なので、こういった考えを共有していくことは非常に重要であるし、相反すると思われていた考え方が、実は共通項が存在して、より優れた志向へと昇華する場合だってある。
一人ディベートの危うさ
本来ディベートというものは、それぞれの考え方や、立場というものをわきまえて行うものである。一人一人が、一つの考え方に集中しつつ、別の意見を受け取り、その意見に対して、より私の意見が優れていることを、低調に模索することができる。
昨今のコメンテーターまがいのインフルエンサーは一人でディベートもどきのようなことをしている場合が多い。という風に感じられる。つまり、ある議題や、時事ネタに対して、持論を展開するというものである。私はこれを勝手に一人ディベートと形容しているが、まさにこの一人ディベートが世の中に横行しているような気がする。
自分の意見を自由に発言することの何が悪いのかと、自由を侵害しているという風に感じているのなら、少し考えてみてほしい。そういったインフルエンサーたちの発言の場は、基本的にはネット上である。特に、ライブで配信しているような、不特定多数の人たちが視聴していることが多いように感じられる。
その空間において、意見というものは基本的には対立しない。コメントなんかで反対意見を述べるような人もいるかもしれないが、そういった意見はノイズとして、無視される場合がほとんどである。もっといえることは、実際に声に出して発言している意見に対して、反対意見は文字面でしかない。その点において既にハンディキャップを持ってしまっているように感じられる。
三項以上の矛盾を孕む世界において
現代は矛盾していることよりも複雑だ。より細かい分類がなされ、そのそれぞれに共存できる部分と、相容れない部分が存在する。大切なことは、広い心で、それらを俯瞰することだと思う。
色々ごちゃごちゃと意見を言っている人たちの中には、ある特定の立場に立ちつつも、その考え方自体に矛盾が存在するということに気づかないで、他を排斥している場合がある。排斥もせず、容認もしない。ただ俯瞰し、自分の考えを見つめていくことが、これからの多様性である。
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