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240621_記述013_IE-NIWAについて⑩

これからのIE-NIWAのようなことを敢えて考えてみる。が、やはりそれはできないようだ。

IE-NIWAは年に2回、春と秋で庭の1番気持ちいい時期にやるということだけを決めている。これは直感的に決めたことだが、前にも書いたように庭が一番喜んでいる時を選んだ。
ただ、それとは別で、定期的にやっている意味についても考えてみる。それはおそらくIE-NIWAを通した帰納法的な経路に可能性を見出しているのかもしれない。逆に演繹法的な作り方への限界を感じているというのもあるだろう。ある特定の理想的未来を想定せずに「今現在,今ここ」を定期的に考え作ることが事後的に何かしらの形や言語を作り上げることを期待している。できるだけこのIE-NIWAを続けていきたいと思っているからこそ、理念や理論が固定されている上では持続が難しいと思っている。場所も変わるし、人も変わる。だから気楽にあまり頑固になりすぎない。おそらく長く続けるということを目的にしているからこそ帰納法的になるのだと思う。これは言葉よりも先に実践を優先するという以前書いたポリシーの話と同じだろう。
でも実践が優先されると言っても言葉や理論(演繹法的なもの)を疎かにしてはいけない。言語を構築していくことは人間が持つ素晴らしい技術である。長期的なものに対しても理論自体は必要であると思う。重要なのはおそらくその理論に囚われて多角的に物事を捉えられなくなることにあると思う。
その実践と理論は交互に切り替わりながら互いを確認し合うように必要になってくる。実践→理論構築→実践→理論訂正→実践…というように。どちらも最終的な質の向上には必要になってくる。実践がなければ何も起こらないし、理論を構築しないと実践が単なる現象としてどこかへ流れていってしまう。これらを繰り返すことが大事なのだと思う。
IE-NIWAを通して考えてみると、そもそもやり始めるキッカケとなった動機が衝動的で直感的なものだっただけに、帰納法的と言うしかないのかもしれない。でもそこには何かしらの確信を元にその動きが始まっていると思う。その自分が始めた動きや実践を別のもうひとりの自分が客観的に言葉を与えて理論構築していく。そしてまた次の場所づくりが始まり、それに言葉を与えていく。そういうことが定期的な開催を通してできるのではないかなと思っている。そしてこうやって書いている今も過去の実践に言葉を与えようとしている試みなのだと思う。

IE-NIWAは、名前やコンセプトとは別のレベルで庭的な作り方でもある。それは上で書いてきたように帰納法的であるという意味だが、帰納法とは庭的な方法である。庭も常に実践的な現実が先にあって、それに対して人間たちはその場をどのようにより良くしていくかと頭を悩ませ工夫しテコ入れしていくのかという場所の運営の話である。その工夫の仕方が感覚的に見えてもそれは身体を通した言語性によって体系化されている。何らかの確信を持って、あるいは身体的衝動によって形作られている。
庭だけではない。何らかの場所や会社、稼働する主体を運営していく時にはその実際の現実に直面し続けなければいけない。それを常に工夫しながら乗り越えなくてはいけないので至極当然のことではあるが、これが大事なのだと思う。生き延びていくための庭的な方法だ。

僕自身ももっともっといろんな楽しいことに挑戦していきたいし、そのためにもあらゆる困難な現実に直面すると思う。でもそれを乗り越えていくことでしか何も起こらないことも分かっている。まだまだ全然何も出来ていない状況ではあるが、これから来る楽しい困難にIE-NIWAを継続していくことで何かしらの学びを得られると思っている。


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