世間と人間の「あいだ」
「世間」はもともと仏教の言葉で、サンスクリットのloka(場所・領域)、laukika(世俗)を漢訳したものです。
世の絶えざる破壊、転変、遷流を表し、また出家して修行僧となるのではなく俗世間に留まっていることを指します。
この原義から派生して、人の世や世の人々のことを示す言葉となりました。
「人間」も、もともとは仏教用語で、mamusya(世の中)の漢訳です。
人が生まれ変わり死に変わる六道輪廻の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を指していました。
中国語では「レンジャン」と読み、人と人との間、すなわち「世間」のことを言います。
日本で「人間」という語が「人(ヒト)」という意味で使われるようになったのは、江戸期以降のことです。
日本にまだ「社会」という言葉がなかった頃、日本人は「世間」に暮らしていました。
そして「社会」で暮らしていると思っている現代のわたしたちも実は「世間」にいるのかもしれません。
企業や官庁で何か不祥事が生じたとき、その組織の責任者は「世間をお騒がせして申し訳ない」と謝罪しますが、「社会をお騒がせして申し訳ない」とは言いません。
「社会」は「個人」から構成され、個々の契約によって成り立つものですが、人が「個人」として独立して存在していない「世間」には、そもそも「社会契約」をする主体がいないのです。
「世間」は「イエ」あるいは「ミウチ」と「タニン」との間に存在している、狭いけれども多様で重層的な世界で、日本人の大多数が自分はここで生きていると実感している「場」のことです。
「ガッコウ」「カイシャ」「ムラ」「クニ」「シンセキ」「クミアイ」「ガッカイ」など、さまざまな「世間」のレイヤーが重なり合って存在し、わたしたちはそれらの総体を「世間」として感じています。
わたしたち一人ひとりはその「世間」の中で、「セイト」であったり「オバサン」であったり「シャチョウ」であったりする役割と、それらの間の関係性において世に存在しています。
「個人」としてではなく、人々の「あいだ」にあって、人々のつながりをつくる「人間」として、アイデンティティを形成しているのです。
日本人はこうした「世間」の中の人々とのつながりを、何より大切なこととして生きてきました。
顔を合わせて相手と交流を保っているのが世間付き合いで、それは「世間話」を共有し合うことで成り立っています。
フェイスtoフェイスで話をすることで、情報や決まりごと、価値観を共有するだけでなく、微妙な感情の表し方までもミラーリングし、お互いが同じ「世間」の一員であることを確認する重要な儀式が「世間話」です。
「世間」は日本的な公共性を持つ場であって、「世間話」という物語の中に表される不文律を空気のように呼吸しながら、わたしたちはそれぞれの集合体を構成し維持しています。
「世間」は呪術的な世界観を内包しており、日本人は日常的に神々と呪術的な関係を結んでいます。
じゃんけんやくじ引きで物事を決めたり、冠婚葬祭などの儀式を大安・友引など六曜の暦注に基づいて行ったり、神社でおみくじを引いたり絵馬を奉納したり厄祓いをしたりします。
呪術性はアニミズムに由来していて、「世間」における贈与・互酬の関係や、長幼の序などとも関係しています。
人と人の関係の背後には呪術的な絆があり、贈与物には贈り主の霊が込められているため、必ずそのお礼を返さなければならず、また年を経たものはそれなりの重みを持つため、人間も年をとればとるほど尊重すべきであるという了解があります。
こうしたアニミズム的世界観としての「世間」は、かつて地球上どこにでも見られる普遍的なものでした。
ヨーロッパにおいても、「11世紀以前の社会は基本的には日本の世間と同じような人間関係を持った社会であった」と、西洋史学者で「世間学」を提唱した阿部謹也は『日本社会で生きるということ』の中で述べています。
ヨーロッパではキリスト教の伝播によって呪術が否定され、自己の内面に目覚めた「個人」が誕生して「世間」は解体されましたが、日本では現在でもなお「世間」や「人間」が残存しています。
西欧文化を受け入れ「社会」や「個人」という言葉を新造しながらも、伝統的な義理人情の価値観は残し、「和魂洋才」というダブルスタンダードの世界を、わたしたちは現在に至るまで生き抜いてきたのです。
「世間」も「人間」もその本質は「あいだ」にあり、わたしたち日本人は世のすき間、人々のすき間に自分の「身」を置くことで、安心で安全な居場所を得ています。
そして人類にとってそれは、太古の昔からのスタンダードなあり方だったのです。
現代の社会の生き辛さは、一人ひとりの「個」が大きくなりすぎて、「間」に納まりきれなくなっているところにあるのではないでしょうか。
「社会」と「個人」という対極的なあり方ではなく、「世間」や「人間」というように重層的で柔軟な「個」と「間」の関係性が、それぞれのレジリエンスを支えることになるのだと思います。