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生命の授業

わたしには6歳の息子がいて
彼には81歳のじぃじがいる、つまりわたしの父。

産後の孤独な子育てが怖かったのと、
結婚も出産もだいぶ待たせのに、一切急かさなかった両親に恩返しがしたくて、出産直前から息子が2歳になるまでの間東京に呼んで同じマンションの上下階で暮らした。

この2年のプチ同居は私にとっても息子にとっても両親にとってもかけがえのない時間となった。
オギャーと誕生した3分後に抱っこして、
じぃじだよ、ばぁばですよ、一気に祖父性祖母性が開花した。

短い育休期間は朝食を終えたら私たちの部屋で過ごし、オムツを換え、ミルクを作り、穏やかな時間が半分。
あと半分は次々くる私の同僚、友人、仕事相手、ワイン仲間など来客と談笑し私の世界を知ってもらった。

仕事を再開した後も息子は週3日は家で主に父の腕の中で過ごし、週2回はインターナショナルプレスクールに通った。
だからはじめて立ったよ、歩いたよ、話したよ、聞いたのは全て父からメッセンジャーで。
英語しか話さないインターの先生ともハイ、サンキュー、オッケーの3つで信頼関係を築いていた。

今も息子の性格が穏やかで、気持ちが満たされている表情をしていると褒められるのは父がいたからに他ならない。

真冬に高熱を出した息子を、仕事中の私に代わり救急病院に連れて行ったのも父。
慌てていたのだろう、病院に駆けつけたら父は素足にサンダルだった。

一緒に伊豆や軽井沢に旅行したり、インターならではのクリスマスパーティに参加したり、お台場にドライブしたり、六本木ヒルズで買い物したり、父母もはじめての東京暮らしを満喫した。

息子が2歳になり家に戻り、しばらくは東京と地元を行き来した。
こんな幸せがずっと続く気がした。
そうではなかった。

2018年父に末期の癌が見つかった。
2021年母の足が動かなくなり、加えて認知症を発症した。
今はケアマネジャーと連絡とり、ヘルパーさんや看護師、医師に助けられ、わたしが月1-2回地元に帰りながら父の闘病と母の介護をしている。

父母のサポートを受けながら子育てした頃とは段違い。仕事の責任はあり、HRという機能上、感染症対策や人件費のコントロールに追われている。父は抗がん剤が終わりいよいよ終末期、母は認知症ゆえ一番きつい父や私によくあたる、と八方塞がりのハードモードだが仕方ない。

2年近く根詰めてきた息子のお受験は6月で諦めた。わかりやすく優先順位が低かったから。ここまで努力して勿体無いと先生方に泣かれたが小学校受験は生命と比べようがないくらいどうでもいい。

主治医とエンディングを踏まえた打ち合わせを重ね、父と遺言をつくり、税理士や弁護士と打ち合わせし、母の介護等級を上げ、介護体制を強化した、穏やかな最期を迎え、安心して旅立ってもらうには段取りが必要。じめじめしている時間はない。

ひとつだけ決めていることがある。
息子に父母の枯れゆく姿を見せること、旅立ちを見せること。死ぬということを教えること。

息子にはこう言ってある。じぃじの病気はもう治らないんだ。クリスマスの前には死んで天国に行っちゃうと思う。
だからいまたくさん思いでを作ろう。
じぃじは弱っていくから身体を使う遊びはダメだよ。もう病気を治すことよりも安心してもらうことがずっと大事なんだ。

6歳の息子は何となく理解していて、
近くで本を読んだり、歌を聞かせたり。
離れているときは動画を撮って送ってと頼んでくる。この子を何よりも大事にした父、また息子も父に全頼を置くからこそ、誤魔化さずに自分の目で見て、感じさせたい。

今わたしは悲しくも辛くもない、使命感に包まれた不思議な境地にいる。
父が死ぬのを待っているのではない。
充分な準備をし尽くすと本番の前に無の境地、静けさがくるあの感じ。

最後のミッションはしっかり看取ること、
そして生命の尊さを息子に伝えること。
これからが本番。2021の夏。

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