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基盤と変異。キンステッド『チーズと文明』を読む(6)「荘園と修道院:チーズ多様化の時代」

今回は、この本の第6章を読みます。今回は中世ヨーロッパ。

摘 読。

荘園制の勃興。

5世紀末になって、西ローマ帝国が崩壊しはじめる。

厳密には、西ローマ帝政の延長線上での統治は続いていたらしい。

そのなかで、荘園制(Manorialism/Seigneurialism)が勃興してきた。もともと、ローマ帝国は帝国を防衛するための植民地を設けていった。その際、食料生産の基盤となる大農場植民地 villa が各地につくられた。ヴィラはローマの町や都市と同様に、ローマ文明のどこにでも見られるものだった。これに対して、町や都市は統治のための中心地であった。チーズは兵士たちにとって重要な食糧であり、ヴィラでは当然ながらチーズも生産された。

ただ、ヴィラでの生産労働力は奴隷に依存していた。それが、植民地拡大の勢いがとまると、労働力不足が生じた。その問題を解決する方法が、農場の土地を細分化して、地元の自由民に永久賃貸しするという方法であった。こうして、ローマ帝国の広大な所有地は、しだいに小さな土地に分割され、自由民の小作人によって耕作されるようになった。

さて、ローマ帝政が傾き始めると、小規模な農場にも次第に重い土地税をかけるようになった。多くの農場が破産し、没収された土地は貴族のものとなった。貴族の所有するヴィラはますます拡大し、自由民の小作人も小作地に重税を課されて、苦しむようになった。加えて、ゲルマン民族の侵入によって、広大な農地と労働者の住宅が放棄され始めた。そこで、当時の皇帝は自由民小作人をそれぞれの土地に縛り付け、世襲される農奴階級を誕生させた。貴族はといえば、帝国内でより安全な地方に逃げるか、より安全で防御しやすい自分たちの領地のヴィラへと移っていった。そういったヴィラは要塞化していき、また自給自足が当然となり、より自治的になっていった。

一方、ヴィラにおける労働力としての奴隷の位置も変容しはじめる。領主たちは、奴隷に小さな土地の権利を認めるようになり、非自由民小作人という地位を与えた。ただ、これは自由民小作人よりも下位に置かれていた。

こういった構造が固定化し、まさに中世ヨーロッパにおける荘園制が成立した。この荘園は小作地と直営地からなっていた。ローマ帝国に侵入したゲルマン民族の貴族たちも、この荘園制を採った。つまり、中世ヨーロッパの荘園制はゲルマン人の支配と社会構造に、ローマのヴィラの基盤が融合したものなのである。

荘園制と修道院。

この荘園を所有していた領主は貴族であったが、現地での運営監督は部下、(つまり、日本的表現を用いれば〈代官〉となろう)がおこなっていた。7世紀にはいると、そういった荘園が貴族から修道院に寄進されるようになる。荘園と修道院の肥沃な土地は新種のチーズの発展には欠かせないものとなった。チーズがどう生産されていったかは、後ほどみていこう。

ローマ帝国が崩壊し、キリスト教会は西側での勢力を失った。ゲルマン民族は多神教信者かキリスト教の異端、アリウス主義の信奉者たちであった。それが、フランク王国の成立、国王のキリスト教改宗によってローマのキリスト教会は再び影響力を拡大しはじめた。ただ、アイルランドではローマ教会の影響はなかなか及ばず、コルンバヌスによる布教活動が大陸ヨーロッパへと広がっていった。これに脅威を感じたローマ教皇グレゴリウス1世はベネディクト修道会の写本に出会って、その修道生活の方法が実用的であることに感銘を受けた。しかも、ベネディクト修道会はローマ教会の権威を認めていた。グレゴリウス1世はベネディクト派を支持し、各地の支配者に勧めてヨーロッパ各地に修道院を建設させ、新たな修道院に荘園のかたちで土地の権利を寄進させた。

これによってベネディクト派修道院は勢力を拡大し、信じられないほどの富を蓄積するに至ったが、それにつれて奢侈の度合いも高まっていった。このような状況に対して、フランス・ブルゴーニュ地方で聖ベルナールが指揮したシトー派改革派修道会が設立された。この派はベネディクト修道会の本来の意図にしたがい、世俗の利害から距離を置いた。荒れ地のみ寄進を受け、それを開墾する肉体労働を担う平修道士の階級を設けた。ベネディクト修道会の「祈りかつ働け」という理想、労働倫理は結果として広大な土地や莫大な資産という富の蓄積につながった。

各地の荘園と修道院におけるチーズづくり。多様化への道。

ここについては、時間の都合上、かなり概略的に記述する。
この時代のチーズづくりについては、資料の再現が困難であるため、不明な部分が多い。ただ、さまざまな形態の荘園と修道院は中世のチーズ作りに中心的な役割を果たしていた。

その過程で、荘園の規模やそこでの牧畜の様相、さらに荘園の農夫による草案や、領主の直営地から生まれたもの、荘園や修道院内部でつくられたものなど、多様な姿でチーズが生み出されていった。

穏やかで湿潤な気候の北西ヨーロッパでのチーズの場合、多くの家事を担うなかで女性たちが集まってつくっていた。それは、コルメッラが記したフレッシュチーズの製法に酷似していた。しかし、コルメッラが生きていた地中海の温暖な気候だとすぐに腐ってしまうこの製法も、北西部の寒冷で湿潤な気候ではまったく別のチーズとして生まれた。その結果、フレッシュチーズから柔らかくて熟成したタイプのチーズ(白カビチーズ、酸またはレンネットによる凝固で作られるチーズ、ウォッシュタイプのチーズ)が生み出された。

このようなチーズづくりにおいては、簡単な作業や貯蔵条件を微調整することで、次第に予測可能で望ましい結果を出せるようになった。これはまさに「腐敗をコントロールする」やり方であった。こういったチーズは時のカール大帝にも愛された。ただ、フランスにおける荘園制は10世紀を過ぎて崩壊に向かう。荘園としてのチーズ作りも姿を消す。ただ、それは農民たちに伝えられ、自分たちが食べる分だけ作られ続けた可能性がある。

一方、イングランドでは羊乳を使うことが多かった。これは羊毛生産と織物製造と軌を一にする。この羊の飼育はローマに占領されていた時代に集中して、牧草が豊かに生育した広大な塩水性湿地帯のある海岸沿いで発達した。イングランドでは、ローマの跡を継いだアングロサクソン人が、ローマ化していた村の奴隷やチーズの作り手として仕えていたブリトン人からチーズの製法を受け継いだ。イングランドにおいても荘園制が発展して、そこでの貢納物としてチーズも含まれていた。ちなみに、イングランドのチーズ作りでも女性がその主役となっていた。

他にもスイス東部のサンガル(ザンクト・ガレンのことであろう)などでは大型の山岳チーズが作られた。

11世紀、ノルマン征服によって、アングロサクソン人のイングランド支配は終わりを告げる。これを承けてもたらされたのが、市場原理にもとづく荘園チーズの製造である。イングランドのチーズもイギリス海峡をわたってノルマンディーへと輸送された。ノルマンディーの修道院にはイングランドの荘園も寄進された。すると、イングランドのチーズなどの農産物が大陸に輸入されるようになる。その評価は高かった。

このような海峡を越えた取引によって、市場経済の側面は強まっていった。特にイングランドでは、荘園の運営を合理化して、利益の最大化を図った。貴族のあいだでの贅沢品や高級品への需要も高まっていった。こういった動向は、旧来の遠隔地の荘園を賃貸的に運営するという方式の限界をあらわにした。13世紀になると、荘園領主たちは一生涯土地を貸し与えるという制度から、職業的な管理人(監督官、荘官)を置いて、直接的に土地を管理する方法へと切り替えた。そして、荘園業務の詳細な経理報告を求めるようになった。この当時に著された『Seneschaucy』『ウォルター・オブ・ヘンレイ』『畜産学』といった書物は、荘園の管理と会計について詳細に言及しているとともに、専門的な職責を担っているさまざまな担当者の責任について強調している。

そういったなかで、羊毛生産とチーズ作りは切り離され、羊乳チーズは15世紀の終わりまでには姿を消す。また、チーズのサイズの規制は経営管理にとってきわめて重要な課題であった。こういった生産管理の組織的側面や計算的側面が意識されるようになっていった。これが終焉を迎えるのは、14世紀から15世紀のことである。異常気象による羊の病気の流行、また疫病による人口変動などによって、チーズ生産のありようも変化していく。これは次章でのテーマとなる。

ザンクト・ガレン(フランス語読みでは、サンガル)は8世紀中ごろにベネディクト派の修道院となった。そのあいだに、修道僧は農奴の手を借りて森林を伐採し、耕作地に変えた。そこで穀物を育て、羊やヤギ、牛の群れを飼育した。ザンクト・ガレンでチーズの製造がおこなわれていたという歴史的根拠はないようだが、13キロしか離れていないコンスタンツ湖畔のアルボンではローマ占領以前からチーズ製造がおこなわれていた。そこからザンクト・ガレンの修道僧たちもチーズ製造の知識を得たと考えるのが自然であろう。

そして、9世紀になると近隣から新しい荘園と農奴の大規模な寄進があった。これによってチーズなどの農産品が税として修道院に入ってきた。9世紀の終わりには、修道僧自身が農作業に携わる必要はなくなり、荘園の管理者として聖職者の仕事や、文化的で知的な探究に没頭することができるようになった。

ちなみに、直接の関係はないが、ザンクト・ガレン大学はヨーロッパにおける経営学研究の拠点の一つである。

これ以外にも、多くの山岳チーズが本章で述べられているが、時間の関係で省略する。ただ、荘園や修道院といった社会的制度、それぞれの地形や気候、そこで飼育されていた羊や牛などの家畜の特性などによって、じつに多様なチーズが生み出されていった。そして、それは地域ごとの特色あるチーズということにとどまらず、流通の発達進展とともに市場経済の動きに乗せられて、あるものは名声を得て、高い値段で取引されるようになる。そういったチーズの多様性を生み出し、成熟させたのが、中世という時代であった。ただ、同じ時期に勃興しはじめた市場経済は、その多様性を蝕んでいくことにもなる。

私 見。

この読書会でも話題になっているこの本、ひじょうに興味深くて、なかなか熟読する時間は得られていないが、卒読だけでも面白い。

ここで、それぞれの地域のさまざまな特性(自然、文化、社会など)に根ざした産品の創出と、その流通などを含めたトータルな価値の流れについての議論もなされている。

その原初的な形態が、中世ヨーロッパの時代にみられはじめたというのは、まことにおもしろい。本来は、「食べる」という人間の生存の根源にかかわるところからチーズの製造も始まったのであろう。ただ、それがさまざまな展開を経て“富”の一形態として取り扱われるようになると、それは自己欲望の充足のためではなく、富の蓄積をめざした生産という姿をとる。

しかも、各地のチーズは、おそらく意図せずに、であったろうけれども、当時の社会構造×各地の条件という、まさに関数的な帰結として生まれ出てきた。別に、地域の特性を生かして、などということは考えていなかったであろう。ただ、それが結果として、チーズの多様性を生み出し、それが市場での取引において魅力的な商品として位置づけられることになったわけである。

こうなると、前章でも出てきたことではあったが、チーズは自分たちが食べるという前提ではなく、商品として生産され、販売されることになる。これこそ、〈経営〉的な視座の浮上である。そして、同時にそれがリカードウの比較優位説のような生産構造の推移をももたらしている点は、かなり興味深い。

このように考えてくると、いわゆるイノベーションにしても、単に技術的側面や経済的側面だけで考えるよりも、社会構造や地域の自然的、文化的側面をも要因に織り込んだダイナミクスとして捉える視座が拓けてこよう。

時間が許されるならば、こういった時代の文献も読んでみたくなる。みたくなるだけだが(笑)

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