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Criticalに事象を見定めていくなかで“それ”が何ものか定義されていく。納富信留『ソフィストとは誰か?』をよむ(4)。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。今回は、納富先生の第1部第3章「ソフィストと哲学者」を読みます。

摘 読。

この章で主人公となるのは、プラトンである。プラトンはレッテル貼りとして用いられがちな「ソフィスト」ということばを、実体をあらわす概念として規定しようとした。そのなかでも、『ソフィスト』においては「ソフィストとは何か」を明らかにすることで、哲学者との相違を示そうとする。それまでの対話篇ではソクラテスとソフィストたちとの対決という図式が採られてきたが、この著作では「哲学者」として紹介される「エレアからの客人」という無名の登場人物が、若本テアイテトスとのあいだで議論を展開する。これによって、ソクラテスという問題の人物の吟味から距離をとらせ、パルメニデス哲学の流れを汲む第三者によって、より客観的で厳密な探究を遂行しようとする。そうすることで、ソクラテスが哲学者であるかソフィストであるかという点が、対話篇の隠れた主題となる。さらに、その対話篇でもプロタゴラスやゴルギアスらソフィストが一人も登場せず、個別ソフィストの名が言及されることも、ほとんどない。これは、プラトンが個々のソフィストを問題にするのではなく、「ソフィスト」という存在そのもの、その概念の普遍的な本質と問題性に焦点を当てようとしていたことを示している。

そのなかで、まず「裕福な若者の狩人」という第一の定義が示されたあと、「学識の商人、小売業者、製造販売業者」、さらに「私的な議論で戦い、金銭を稼ぐ争論家」という第五の定義が示される。それに続いて「論駁によって、魂における誤った考えを浄化する者」という第六の定義が現れる。しかしこれは、ソフィストとみなすにはあまりに高貴であるし、そもそもこの定義はソクラテスを想起させるがゆえに、ソフィストの定義として疑念があるものとして位置づけられる。ここであらためて議論が展開され、最終的にソフィストは「知者を真似る者」「知者と現れているが、実際にはそうではない者」と定義される。そして、エレアからの客人によって、ソフィストは

「矛盾を制作する者であるが、空とぼけ的部分に属し、思い込み的な模倣に属し、現像制作の類に属し、像制作のなかの、神的ではなく人間的な政策に属する。これが、言論において、驚きを作りなす部分として切り離されており、本当のソフィストが「この血筋と血統に属する」と語る者は、もっとも真実を語っているように思われる」

と規定される。これは、ソフィストとは何者かという議論のなかで現れてきた諸側面を照らしだし、ソフィストとは何かの本質が確定され、哲学者と明確に区別されることで浮かび上がってきた定義である。

そのうえで、プラトンはソフィストとの対比において哲学者とは何者かを浮かび上がらせようとする。

この区分、そしてこれに立脚して展開されるプラトンのソフィストへの批判が正当なものかどうかは議論の余地がある。

たとえば、ソクラテスはアテナイ市民として生まれ、生涯ほとんどそこから出る必要もなかった。しかし、文化や政治の中心から遠く離れた地域に生まれたプロタゴラスやプロディコスは出身地を離れて、アテナイなど大ポリスに行かざるを得なかったし、シチリア出身のゴルギアスの場合は故国がシラクサに滅ぼされてしまった。その点で、プラトンのいうソフィストたちはコスモポリタン的に活動せざるを得なかったのである。それゆえに、自らの発言がポリスに対してどのような社会的影響をもたらすのかという点に関して責任を負わないという側面もあった。それが、論難の対象ともなったわけである。ソクラテスにしても、プラトンにしても、自らの出自であるアテナイというポリスに根ざすことこそが重要であった。

さらに、金銭取得に関しても、プラトンは知識や徳の教授の対価として金銭を受け取ることを厳しく批判する。そこでソクラテスの考え方として強調されているのは、自由な交際と不自由な職業性である。つまり、対価として金銭を得るとき、その相手が望ましい相手でなくても知識や徳を教授しなければならない。それのみならず、ソフィストがしていることは、知識の教授と引き換えに金銭を取ることは、知識を一種の商品として売り買いすることに等しく、知を経済価値に還元して扱う態度である。この点に対して、プラトンは厳しく批判した。

この他にも、ソフィストが掲げる徳の教育に関しても、そもそも徳を教育しうるのかどうかという論点を提示し、言論による説得ではなく、正しく言論を行使しうる可能性を問うた。そして、ソフィストたちが「われわれは知っている」という立場をとったのに対して、「知らない」ということを自覚するのが哲学者だとしたほか、辿り着けないものとして真理を位置づけたうえで、その探究を志すことが哲学者だとした。

このようにして導き出された“哲学者”とは職業ではない。あくまでも人間の生のありかたを意味していた。同時に、ソフィストという名称もまた、哲学者との対比のなかで、われわれの生き方のかたちをあらわすものとなる。この問いは、第三の選択肢を許さない、排他的な二者択一としてあらわれている。したがって、「哲学者とは何か」という問いは、ソフィストに対して初めてかたちをとる。これは、ソクラテスが哲学者として自明であったということではなく、むしろ逆にソクラテスこそが本当のソフィストかもしれないという深刻な問いに向き合うなかで生まれてきたものであった。

その意味において、現代におけるわれわれも自身がソフィストである可能性に直面しながら、それを批判し、自らが哲学者になることによってしか、両者の対は明らかにならない。この問いの主役は、私自身なのである。

私 見。

第1部の最終章だけあって、本書の問いがここにきてぐっと「盛り上がってくる」感がある。しかも、最後の文章にあるように、単に「ソフィストとは誰か」について“正解”を安直に提示しようなどとは当然しない。ソフィストと哲学者とを分かつ“きわ”をギリギリのところで探究していくことが、ここで課されているといっていい。その点において、二者択一である。しかし、ある一人の人間において、ソフィストとして生きている面と、哲学者として生きている面が混在してしまうこともありうる。実際、本章中でも言及されていたが、アテナイのソフィスト・アンティフォンのように、アテナイに殉じた人もいた。プラトンはこの人物にほとんど触れていないという。それは、プラトンの弁別基準に合わないという深刻な問題を含んでいたからなのであろう。

その意味において、この問いを受け取るとき、まさに“際”ギリギリのところを問うていく、言い換えればcriticalに問うていくこと、これ自体が哲学者としてのありようであるといえるのかもしれない。

我が身を省みたとき、知識教授によって生計を立てているわけだから、私もソフィストに含まれる。残念ながら、活動はドメスティックであるが(笑)しかし、この読書会のように、自由な交わりにおいて対話することも少なからずある。それ以外の点でも、自分自身の心がけとしては哲学者の側に属することは多い。

自らに問いかけたとき、この二者択一を迫る弁別基準は、きわめて線引きが難しいものとして立ちはだかってくる。したがって、この問いかけに対して、きれいな線引きなど、ほぼ無理なのかもしれない。にもかかわらず、その際のギリギリのところをcriticalに問うていくこと、それが哲学者という存在のありようなのであろう。そうありたいと思う。

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