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ポリス共同体/社会的共同関係を支えるのは、愛だ。アリストテレス『ニコマコス倫理学』をよむ(8)。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。

今回は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の第8巻。毎回注記してますが、巻といっても、現代的な感覚でいえば“章”に近いです。今回は、愛/友愛に関する内容。前の巻に比べて、言いたいことがけっこうすっきり述べられている感があります。ちなみに、次の第9巻も引き続き、愛/友愛に関する議論です。

読書会での設定文献は↑の翻訳だが、最近になって以下の文庫版の存在も知りました。ここでは西洋古典叢書版を用いますが、たまに光文社古典新訳文庫版を参照することもあるかもしれません。

今回は、訳文に関して、光文社古典新訳文庫版を参照しています。


摘 読。

第8巻。第9巻も続いて愛/友愛について論じられている。前巻の抑制をめぐる議論と関係なさそうに見えるが、むしろ快楽とそれへの抑制というのは自ら律するところをテーマとしていて、そのうえで他者との関係性の良好さを愛/友愛フィリアという言葉で考えようとしているとみれば、たしかにつながっている。なぜなら、アリストテレスは愛を徳として捉えているからだ。

そして、この愛は他の人間(←後述するが、ここが当時の状況を反映している)とのあいだにおいてなりたつ。ただ、同じような考え方を持っている人だけでなく、決まった種族やグループの垣根を超えて人々を愛せる人(文庫版下巻、187頁訳注4;原語はphilanthroposとのこと。すぐに想起できる人もいるだろうけれども、フィランソロピーと同じ語である)こそが賞讃される人として位置づけられている。したがって、個人間の関係においてだけでなく、ポリスのように利害や意見を異にする人たちのあいだでも愛が重要であるとアリストテレスは論じる。第9巻で論じられる〈協和〉という概念に近いというのも、ここで念頭に置いておいてよい。

3つの種類の愛

さて、ここで「愛」というときに3つの種類がある。
(1)有用さにもとづく愛
(2)快楽にもとづく愛
(3)善いということにもとづく愛

このうち、(1)は自分にとって、その相手が役に立つから愛するというものである。相手の人間性にもとづいて愛しているわけではない。また(2)に関しても、自分にとっておもしろいから、快いから愛する。これら2つの愛は付帯的なものである。なぜなら、相手が自分にとって有用でなくなったり、おもしろい/快い存在でなくなったりしたら愛することをやめるからである。

それに対して、(3)は善き人々のあいだ、つまり徳の点で類似の人々のあいだに成り立つ愛こそが完全なものとアリストテレスは言う。ここでは、かれらが善き人である限りにおいて、互いに同じ仕方で互いの善を願い合うのだが、ここでかれらが「善い」のは、かれら自身にもとづいてのことだからである。つまり、何か他の理由によって愛するのではなく、その人がその人自体として「善い」と、自分自身における「善い」の判断基準に照らして受けとめ、愛するのである。この種の愛は安定した持続性を持つ。しかし、稀にしかないのも事実である。このような愛が成り立つには、どちらも相手にとって愛する価値のある者と感じられ、信頼されるまでは、友人として受け入れるということも、友人同士であるということもありえないからである。

「ともに生きる」関係性

このような善にもとづく友人は、「ともに生きる」間柄である。この種の愛は一方向ではなく、双方向的である。したがって、友人を愛する人々は、自分にとっての善をも愛してもいる。それゆえ、双方いずれも自らにとって善きものを愛するのだが、これは願望においても快楽においても「等しいもの」をお返しする。この相互的な等しさが成り立っているがゆえに、善にもとづく愛が成り立っている関係性は安定した持続性を持つといえるわけである。こういった関係性、つまり完全な愛においては、多くの人と友人になることはできない。

ただ、有用さや快楽のゆえに多くの人々に好かれるということはありうる。このうち、快楽の場合は同じものが両方の人から生まれて互いを喜んだり、揃って同じものを喜んだりする場合に、いっそうほんものの愛に似ているとアリストテレスは言う。というのも、この相互的な快楽の愛のうちに、自由人らしさがより多く含まれているからである。一方、有用さにもとづく愛は商売上手さな人々に属する。

優越性にもとづく愛

さて、ここまで述べてきた愛は「相互の等しさ」に立脚して成り立つものであったが、優越性にもとづく愛も存在する。アリストテレス自身は、対等な人間関係を第一に置き、優劣のある人間関係を二次的なものとする。とはいえ、現実には双方の卓越性や徳において質的な差が生じることはある。そのような場合でも、関係のあり方に応じた強さで、互いに対して自分から愛するということが成り立つ。ここで重要なのは、フィリアとは、愛されるということよりも、自分から愛することのうちにある。等しくない間柄の人どうしも、価値に応じて自分が愛するときには、もっとも友人になりやすく、安定した持続性を持ちうる。しかし、自らが愛されるところを何も持たずに愛されることを期待するのは滑稽である。

共同性と愛:共同関係の場合と家族の場合

このようにみてくると、愛と正義は人々の共同性に応じて変わってゆくことがわかる。どのような共同関係においても、何らかの「正しさ」があり、そこには愛もまた存在する。愛は人々が共同することのうちにある。

すべての共同関係は、ポリス共同体(社会的共同関係)の諸々の部分であるとアリストテレスは言う。なぜなら、人々がともに進むのは何らかの利益のためであり、それでかれらは生活に役立つ何かを提供しあうからである。なかでも、ポリス共同体は最初から「利益のための共同」としてつくられ、そのようなものであり続ける。ここにおいて、人々は「共通の利益」を正しさとして主張する。他の諸々の共同関係は、利益をある限定的な範囲でめざす点で、類似している。ここに共通するのは、「今ここの利益」をめざすのではなく、生全体に及ぶ「益」をめざしている点である。

ここで第10章として3つの国家体制の話が出てくるが、支配関係の総意が論じられる。その相違については、ここでは省略する。

さて、ここ(第11章)でアリストテレスは、いわゆる市民と奴隷との関係に言及する。端的に言えば、アリストテレスは「奴隷に対しては、気遣いはあるとしても、愛はない」という。つまり、アリストテレスがいう愛の対象は市民としての人間に限定されている。この点は、私見のところで現代的な論点として考えてみたい。

さらに、第12章では家族の愛についても考察がなされている。ここでも、古代ギリシアと現代における家族のありよう、関係性に相違があるために、そのまま受け取れないところがある。ただ、アリストテレスの愛の議論は、相手との関係性において決まってくるという点が、つねに通底していることは留意されてよい。

愛につきまとう不平。ただし、これは有用性にもとづく愛の場合。

有用性にもとづく愛の場合は、相手に対する不平や不満が生じやすい。なぜなら、そのような人々は利益のために付き合っているので、「より多く」を貪欲に求めるからである。このような点を考慮するとき、有用性にもとづく愛にも人柄にかかわるフィリアと法的な友好フィリアがある。後者の場合、明文の取り決めによって取引などがおこなわれるが、スポット的な取引であればいざ知らず、時間的な取引の場合(現代でいえば〈関係的契約〉をめぐる議論と重なる)には、不平や不満が生じる可能性が出てくる。一方、前者の場合は、自分が相手から善いことを受けた場合、それと同等以上にお返しをしようということになる。つまり、有用性にもとづく愛においては、よくしてもらう側の利益が尺度となる。これに対して、徳にもとづく愛の場合は相手に対してよくしてあげる人の側の選択が尺度となる。アリストテレスは、後者を重視しているように思うが、かといって前者を否定しているわけでもないように思う。そうでなければ、現実の倫理を論じることはできないだろう。

優越性にもとづく愛を維持するために。

第8巻の最後にある第14章は、第9巻につながるという点でも、また私見のところで、より言及したいのだが、経営(あるいは広義の経済)を考えるうえでも重要と思われる。

この優越性にもとづく愛においても、諍いが起こる可能性がある。より善い人は、善き人にはより多く配分されるべきなので、自分のほうがより多く持つのは当然であると考える(と、アリストテレスは言う。このあたり、仏教的思考とは異なるのかもしれない)。つまり、フィリアから得られるものが、各人のはたらきの価値に応じていないとき、それは「公共の奉仕」(当時の「献金」の風習のことであるという。文庫版下巻265頁、訳注1)になってしまっていて、愛にはなっていないからである。それゆえ、役立たずの人間は、等しい取り分に与るべきではないと主張する。一方、窮乏している人と能力の低い人のほうは、困っている人を援助することこそ善き人がしなければならないことであると主張する。

アリストテレスは、それぞれ正しく期待しているという。そのうえで、愛にもとづいてそれぞれの種類の人に、「より多く配分」すべきだという。その際に注意しなければいけないのは、同じものをより多くというわけではない点である。優勢な人には名誉を、窮乏している人には利得をより多く、といった具合である。これが「価値に応じた配分」であり、これによって愛は等しいものになり、愛を維持することが可能になる。したがって、相互に等しくない人どうしも、このように付き合うべきであるというわけである。アリストテレスの主張は、「与えることができるものを見返りに与えるべき」というものである。なぜなら、愛はその人に可能なものを要求するのであるからだ。

第9巻に向けて

第9巻については、またあらためて書くが、その第1章においては、いわゆる経済的/価値交換にかかわる関係性の良好さから議論がはじめられ、よりよい生に向けてのフィリアについての考察が展開される。

その意味で、第8巻での議論は愛/友愛というのが、関係性の等質的な良好さにかかわっているということを、アリストテレスは論じようとしたといえよう。

私 見。

前回、私は最後にこんなことを書いた。

そして、第8巻と第9巻での愛/友愛の議論は、CareやProximity, Convivialityともつながってくるような予感がある。

Careはまちがいなく、アリストテレスの議論のなかに含まれているとみてよいだろう。ただ、やはり分別ロゴスが基軸になっていることもあってか、ProximityやConvivialityといったところに至っているという感じは少なかった。とはいえ、こういったところは前提なのかもしれない。

それにしても、この巻の議論もすごく興味深い。
あまり読み手が勝手に言い切ってしまうのはよくないのだが、アリストテレスのフィリアとは、ひとまず「他者との関係性の(能動的)良好さ」とみることができそうだ。ここで関係性が良好であるというのは、一方向的なものではありえない。双方にとって、その関係性が良好であるときに、愛/友愛フィリアが成り立っているといえる。

その際、有用性、快楽、善という3つの種類が立てられているのも惹かれるところである。よく真善美というが、それと近いようで少し違う。「役に立つ」「快い/楽しい」「善い」というのは、機能性、審美性(感性)、倫理性というように読み替えてもよさそうだ。以下の図を考えたとき、私自身は経営現象において“真”というのはあまり実態にそぐわないと思って、機能性に置き換えた。

アントレプレナーシップにおける判断基準の3軸(山縣作成)


アントレプレナーシップサイクル(山縣作成)

アリストテレスがいう快楽は、人間関係を対象とした議論であるがゆえに、かなり身体的な快楽に寄っている。しかも、動物や無生物は「愛し返さない」がゆえに対象から外されている。このあたりは、現代的な感覚からすれば異論もあろう。それはひとまず措くとしても、善に比べてやや低い地位を与えられているようにも感じられる。ただ、両者の快楽を互いに喜び合うとき、そこにはより自由人らしさがあるともアリストテレスは言う(文庫版217頁、1158a20前後)。そもそも、アリストテレスにおいて詩学は存在するが、美学は存在しない。その点で、現代的な“美”の位置づけとは、かなり異なる可能性がある。とはいえ、感性的な側面に目を向けているという意味では、快楽を感性的な側面と位置づけても大きく踏み外してはいないはずだ。

有用性というのは、まさにその人にとって有益なはたらきをなすという点で機能的な側面といってよい。ただ、ここでもやはり留意しておきたいのは、この議論が人間関係を対象としている点である。「こやつは、役に立つやつじゃ」という時代劇にでも出てきそうなセリフが思い浮かぶ。

そして、善にもとづく愛、つまり関係の双方向的かつ能動的良好さこそが、ここでもっとも重視されている。これは、絶対的な倫理ないし道徳基準に拠って立つというより、その人が抱く(もちろん、それはその人をかたちづくっている環境=諸関係の輻輳態からの影響がある)道徳基準によって規定されるものであり、同時に相手の道徳基準やそれに基づく行為・行動との関係性のなかで生じていくものである。だからこそ、アリストテレスは善にもとづく愛に立脚した友人関係ができるには時間がかかると言っているわけだ。

ここで能動的という言葉を入れたのは、アリストテレスの議論を読みながら、ルーマンの信頼の議論を想起したからだ。ルーマンのいう信頼概念はあくまでも信頼しようとする側の期待である。つまり、相手に対してかける(賭ける)ものである。投企するといってもいいかもしれない。

このような善にもとづく愛が成り立っている=友人関係にあるとき、「ともに生きる」という状態が成就しているとアリストテレスは考える。これは、2300年以上前と現代とそう変わりはない。そして、ここにおける均衡感の重要性も、今でも同様だろう。

そのうえで、それが単純に等しくならない状態を、さまざまな面から考えていこうとするのがアリストテレスのおもしろさであり、議論が錯綜しやすいところでもある。とはいえ、現実にはアリストテレスが想定する優れた人どうしの愛は、稀である。アリストテレス自身も認識している。

これはポリス共同体/社会的共同関係においては、等しくない関係性のほうがむしろ通常である。この点を踏まえて、第9章以下の議論が展開される。ここは経営現象を考えるうえでも、かなり示唆が大きい。とりわけ、経営学に軍事的語彙(その代表例が、戦略という概念であろう)の導入によって後景に退いた政治的語彙(もともと、経営戦略という言葉が普及する前は経営方針/経営政策=business policyであった)をあらためて「復権」させるなら、このアリストテレスの考え方はきわめて重要な示唆を与えてくれる。そして、このポリス共同体という発想が、それぞれの個人の利益と共通の利益を両立的に実現させ、よりよい生を可能にするという考え方につながっているのは、バーナード(Barnard, C. I.)の協働/組織理論を想起させつつ、山縣個人としてはすこぶる魅かれるところである。

その際、アリストテレスがいう“人間”に奴隷が含まれない点は、現代からみれば違和感しかない。しかし、いったん踏みとどまって考えてみよう。企業において、経営者と従業員の関係性を考えるとき、どうか。一人ひとりを“人間”として位置づけ、接しているのか、それとも“奴隷”と同じように、つまりその人自身の判断基準を認めず、隷属的な存在として接しているのか。後者の場合には、アリストテレスのいう善にもとづくフィリアは、当然ながら成り立ちえないだろう。

さらに、第13章で議論される人柄にかかわるフィリアと法的な友好フィリアの整理も興味深い。前者を企業文化や組織文化、後者を企業体制などの明文規則体系と位置づけることも可能だろう。

こうみてくると、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』において、この第8巻と第9巻は、一つの山場になっているようにも感じられる。愛などというと、観念的規範論ともとられようけれども、そうではない。他者への配意を前提にした自律的で能動的な関係性の良好さこそが、ポリス共同体/社会的共同関係を可能にするという現実認識があったとみるべきだろう。

そう考えると、木村祥一郎さんがnoteに書かれたこと、Twitter/Xで呟かれていることも、よりリアルなものとして捉えることができるように思う。


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