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極論の出自を明らかにする思索のアプローチとしての〈学史〉〈原理〉研究:往復書簡第9信

安西洋之さん

あらためまして、新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。この往復書簡、息長く続けていきたいですね。

さて、新年早々、私にとってはすごくスリリングな提題、ありがとうございます。もともと、こういうあたりを研究してきた(これっていう成果はまだ出せてないですがw)ので、すごく嬉しいです。

0.そもそもなぜ、私は経営学史を研究アプローチとして採っているのか。

ちょっと長くなるかもしれませんが、少し前置き的な話をさせてください。

何度も書いてますが、私はもともと文学部志望でした。滑り止めのつもりで気軽に受験した商学部には合格して、本命だった文学部には落ちました。たまたま、その大学は他学部の講義を受講しやすくて、しかも入学した商学部では教養科目の4区分のうちの一つを他学部の専門科目で充たすことができるという、個人的には嬉しい制度があったので、文学部の講義を受けまくりました。次の入学年次から〈副専攻制〉というもっと踏み込んだ制度ができて、さらに数年後にはダブル・ディグリーも導入されてました。もうちょい早く導入してくれよって思いましたが(笑)

なので、経営学にはほんとに興味がなかったのです。今でこそ、それなりにやっているつもりですが。

しかも、2年次に通年のドイツ語の授業で1度だけ宿題をすっぽかして中間試験の成績が59点になったおかげで、ドイツとついてる領域に興味がなくなったのです(あ、ちなみに後期は担当の先生がもともと入れ替わる予定で、ちょっとは頑張ったので、ぶじに単位は取れましたw)。

私が在籍していた商学部は、ドイツ語圏の経営学説を研究される先生方が当時はすごく多くて、それをみて「あー、こういうゼミはたぶん合わへんわ」と勝手に思って、志望対象から外してました。マーケティング領域には魅力的なゼミも多かったんですが、人気だってのを聞いてたので避けてました(笑)

そんななかで志望して入れてもらったのが、経営科学(Management Science)と題されたS先生のゼミ。意思決定について研究するとあったので、おもしろそうかも、と。そしたら、数学的アプローチで。もっと苦手なアプローチでした。

ただ、学部ゼミではそこまで数学的なアプローチではなかったです。その先生のおかげで、ほんのちょっとだけでも数学的アプローチに触れる機会が出たのは、今から思えばすごくありがたいことでしたし、ていねいな論理構成を重視される先生(←当然やんって思われるかもですが、ここをちゃんと指摘してくださる方って、そんなにいない気もします)だったので、学恩ははかりしれないです。

何となく大学院に行ってみたいなとも思っていて、S先生にそのことを話したら、ドイツ語をもとにした翻訳文献を紹介してくださいました。ふわっとした本よりも、理論枠組としてしっかりしているもののほうがいいというお考えがあったんだろうと思います。

そこから、ようやくドイツ語圏の経営学に関心を持つようになりました。そして、あるタイミングで、その学部ゼミの先生の廊下向かいの研究室におられる「K先生に話を聴きに行ってみ」とアドバイスをもらいました。このK先生が、私の大学院以来の師匠です。

こうして、ドイツ語圏の経営学説(←だから、経営現象そのものを直接の研究対象とするという意識は稀薄でしたw)を研究対象とするという私の研究アプローチが、まず決まりました。しかも、単に学説を読解して完了というのではなく、社会経済的な背景であったり、その背後にある哲学や社会学、経済学などの基礎&隣接諸学の影響を踏まえたうえで、学説の意義を明らかにしようとするというタイプの学史研究だったのは、今の私にとって、すごく有益なものとなっていると、あらためて感じています。

お恥ずかしいですが、3年前にS先生の定年退職を記念して書いた論文です。「方法としての経営学史:経営学史と協同的実践」というタイトルです。あまり興味を惹かないかとは思いますが、私の基本スタンスを書いた、ある意味で珍しい論文です(笑)

ここから先の話は、以前に少し書きましたので、省きますね。

1.学問ではないと存在を否定されてきた経営学の哀しい出自。だからこそ、見えてくること。

さて、ようやくここから本題に入ります(笑)

アメリカにおける経営学は、どちらかというと学問体系とかそういった点にあまりとらわれず、実践知識の体系化という流れのなかで生まれてきたといえます。一般的には、テイラーの科学的管理がアメリカ経営学の出発点として位置づけられることが多いです。もちろん、異なる考え方もあります。

一方、ドイツの場合はすでに大学という教育機関が存在していました。そのなかで、いわば「金儲け」を教えるなど、大学でやるべきことではないという見解が経済学者のなかから出てきました。当時、経営学という名称ではなく、Privatwirtschaftslehre(私経済学;プライベートな行為主体の経済活動に関する学問)という言い方をしていました。私経済学という名で生まれたばかりの経営学は、まず学問的に生き延びなければなりませんでした。そこから、商科大学(Handelshochschule)が設立され、学問としての方法論を整備することにもエネルギーが注がれました。

それゆえに、ドイツの経営学(Betriebswirtschaftslehre;経営経済学)は方法論重視で、実践への関心が薄いという誤解もまた生まれました。

日本では、アメリカの経営学とともに、ドイツの経営学も輸入されたので、こういった方法論的な議論が一時期活発に行われました。ここから〈経営学原理〉や〈経営学史〉といった領域が生まれることになります。ドイツでも、Allgemeine Betriebswirtschaftslehreという名称で、議論の深浅はともかく「経営学とは、どういう学問なのか」という点について考えることがスタンダードであった時代がありました。

ここには、もちろん内発的な側面もあります。が、同時に、外発的な側面もあったわけです。今では、いちおう経営学も学問領域の一つとして認められていると思います。それでも、「学」になってない”経営学”と名のついた文献は世にあふれてますが(笑)

でも、こういった、まさに原理的な問いというのは、自分たちが何者であるのかを問い直すうえですごく重要であることは、疑いをいれません。学史というのは、まさにこの原理性を問うアプローチの一つなのです。

ただ、念のために申しますが、学問は学問のためとは思っていません。学問は学問としての自律性を持っていますが、究極的には、人間、さらにはそれをとりまく地球、さらには宇宙(←ここまでくると、いったん社会科学からは離れますが)という存在そのもののさまざまなありようを明らかにし、それらが私たちが生きていくうえでどうすべきなのかに関する「導きの星」を提示するところに、その意義があると思っています。しかも、そういった存在のありようにしても、すべてを解き明かすことは永遠にできない(=部分的にしか解明できない)という点も、ものすごく重要でありましょう。

だからこそ、カントの「物自体」という概念は、きわめて大事なのだと思っています。

2.学問における重要な方法としての〈批判〉

ここらあたりから、お返事に近づいていきます。迂遠ですみません(笑)

私の往信とそれに対する安西さんからの返信で議論になっていた「極論」は、ある意味で何がしかの原理を提唱しようとする試みであるといえます。

原理というのは、「すべてではないにせよ(←ここ大事)ある程度まで普遍的に、ある関係づけられた事象を説明することができる論理」といったん定義できます。

さて、学問、というか知識・知見が有益であるという場合に、大事な点は「それが、どこまで有効なのか」という点です。雑なたとえで恐縮ですが、いくらいい薬でも飲みすぎたら毒になるのと同じです。その有効性であったり、有効範囲であったりを見定めていくプロセスこそが学問だと、私は考えています。

その意味で、学問は大学に属している人しかできないなどということはありません。大学に属していても、このプロセスから外れていたら〈学者〉と言えるのかどうか疑問を呈してもいいと思います。在野であろうが何であろうが、ここは揺るがないところだと、私は考えています。自説を主張することが学問そのものではないわけです。

このプロセスにおいて重要な位置を占めるのが、〈批判〉です。批判というとケチをつけることだと思ってる方も多いですが、それは違います。基本的に、私が大事にしたいのは内在的批判です。つまり、提唱された見解が、それ自体としてどういった対象に、どこまで有効な論理であるのかをまず見定めること、そしてそれが必ずしも有効な論理になっていないとすれば、どこが問題なのかを明らかにすること、さらにはその見解はどういった問題認識や思想的背景をもって提唱されたのかをも明らかにすること、こういった営みが学問的な批判としての内在的批判であると思うのです。

その際、自らの立ち位置を明確にしたうえで批判することも、言うまでもなく重要です。外在的批判というのは、ひじょうに簡単なのですが、自らの立ち位置を明確にしたうえで、かつ対象となる見解の内在的批判をおこなうというのでなければ、ただの水掛け論にしかなりません。往々にして、こういう水掛け論は不毛に終わります。

それか、自らの殻に閉じこもって、信奉者(+都合よくその原理を利用しようとする者)の閉鎖的共同体だけで原理主義に奔るという方向性になってしまいかねません。

この本で提唱されている見解のすべてに賛同できるわけではありませんが、年始に読んだこの文献、そのあたりにもいくらか目配りがなされていて、おもしろかったです。

いずれにしても、自らの見解をちゃんと批判(←あくまでも、ここまで述べてきた意味における〈批判〉です)にさらすということ、また上に述べてきたようなプロセスにもとづいて提示された批判に対して、できるかぎり誠実に応答すること(responsibility=責任)は、それがすれ違う可能性があるということも十分に考慮に入れたうえでなお追い求めたいところです。

3.学史・原理研究と経験的研究の相互往還

ちょっと立ち入った話になりますが、ご容赦ください。

○○学史や○○学原理と呼ばれる領域は、どちらかというとさまざまな学問的言説に対して、その意義を酌み取りつつ、その問題点を内在的に明らかにし、さらなる可能性を探究していくところに重点がおかれます。

一方、経験的研究というのは、もちろんそこから原理を探究していくという側面もありますが、同時に今まで言われてきた定説としての原理に対する批判となる側面も持っています。経営実践の場合は、もちろん定量的なデータによってなされる場合もあれば、定性的な事象の探究によってなされる場合もあります。

それによって、提唱された原理的見解の妥当範囲を明らかにしていくことも可能になりますし、場合によっては、その原理的見解が覆されることもありえます。ただ、社会現象のなかでも経営現象の場合は、歴史的一回性が濃厚であるため、厳密な意味での反証は困難でもあります。だからこそ、経験的に妥当範囲を見いだしていく必要があるわけです。

しかも、経営現象の場合は、経営実践ということもあって、ほんとにさまざまな言説が提唱されるわけです。それらは、学者だけでなく(というか、経営をめぐる言説において、学者が占める比重はきわめて小さいと思います)、ビジネスコンサルタントや思想家・批評家、そして経営実践に携わっている方など、さまざまなところから提唱されます。

ちなみに、昨年読んだなかで、個人的にすごくはまったものの一つに、ALL YOURSというアパレルを展開している木村昌史さんの『ALL YOURS magazine vol,1』があります。ちなみに、発酵デパートメントの小倉ヒラクさんも、帯文を寄せてらっしゃるおひとりです。

そういったさまざなま言説とともに、定量や定性、さらには実験というアプローチに立脚した経験的研究とを突き合わせながら、新しい知見を探究していくというのが、やはり学問のプロセスであろうと思うわけです。そして、学問は別に学者だけのものではなく、そのプロセスに参加する(当然、そのプロセスにもルールがあるわけですが)人すべてに開かれていること、ここを忘れてはならないと思います。

経営学史や経営学原理に限らず、学史や原理探究というアプローチは、それ自体としては地味です。土壌を保っていくような作業といえるかもしれません。なかには「極論」という種も入ってくるでしょう。それがどういう種なのか、それはどこに植えればよいのか(場合によっては、植えるべきでないのか)、育てるとしてどう育てればいいのか、そういったことを考えるのが、学史や原理探究というアプローチなのかなと考えています。

4.文化とビジネスの話に戻しつつ。

かなり個人語りに寄せた話になってしまいました。もともとのテーマに戻したいと思います。

ひとが文化について語るとき、なぜか昂奮状態とも思えるような言説になりがちですよね。おそらく、自分が大事だと思う〈文化〉、ここでブルデューの言葉を借りることが妥当かどうか、まだ自信が持てませんが、〈美的性向〉が危機にさらされているという直感が、文化を語るきっかけになっているんじゃないかと思います。

それはそれでよいのですが、やはりその際にも少しクールダウンしないと、文化という、いわば“文様”だけを見て、その背後にある織り方を捉えることができなくなってしまうのではないかと考えます。この“織り方”こそ、社会的諸関係の織りなされ方というふうに理解できるのではないでしょうか。

ここを十分に解きほぐさずに、文様だけ見て素地を即断してしまう弊が、ものすごくあふれているように感じています。その弊を一つひとつ取り除いていこうとするのが、文化の読書会であり、デザイン文化の勉強会であり、また安西さんが別途やってらっしゃる勉強会や連載なのだろうと思います。

本来は地味でひとさまに注目されるはずのない私のような研究アプローチの人間が、こうして実践の方々と議論し、思索できる、あるいはそういったお声がけをもらえるというのは、学史や原理探究というアプローチがもつ一つの意義なのかなって、昨年以来感じるようになりました。ほんとにありがたいことです。

5.ちょっと考えてみたいこととしての「資本主義って何?」

最後に、ここ最近すごく気になりだしたことについて、メモがてら書いておきます。

それが、「そもそも、資本主義って何?どういう事態をさして、資本主義って言うてるの?」という問いです。これは前便にも書いてくださったことと重なり合うでしょうし、言及されたトゥールミンの提題ともつながってくると思います。

特に昨年からですが、ここ数年しばしばみられる議論のなかに、「ポスト資本主義」というものがあります。まぁ、こういうのは定期的に浮かび上がってきた議論ではありますが(笑)ただ、そうやってシニカルになったところで何も生み出しません。

でも、ここで考えないといけないのは「そもそも、あなたが捉えている資本主義ってどういう事象?」という問いのはずなのですよね。それを十分に議論せずに「資本主義はだめだー!」って言われても、おそらく資本主義はびくともしないんじゃないかと思うわけです。

あ、別に私は金融資本主義と呼ばれるような、「とりあえずおカネ!」みたいな思想に与しているわけではまったくありません。

資本主義って何なのかを、歴史的に、しかもかなり多様な事象として捉えないかぎり、何が問題なのかも抉り出せないはず。しかも、資本主義それ自体も変容しているはずですし。少なくとも、150年前の資本主義と今とでは、かなり様相は異なるでしょう。

ここらへんは、ブローデルを読むことで明らかになっていくはずですが、暇を見て、他の文献もあたってみようと思っています。また、何かの折に、このあたりもじっくり議論できれば幸いです。

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ということで、今回も長くなりました。前便に対するちゃんとした返信になっているかどうか心許ないですが、ひとまずこのへんで。

あらためて、2021年が佳い一年になりますように!







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