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空間におけるプライベートと社交:住む。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(8)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第9回のメモ。今回もタイトルとしては「余裕と通常」。ただ、今回からは住居や衣服、流行の章。ここには、食べるという人間にとって必須の営み以上に、貧困と贅沢の差がはっきりとあらわれてくる。

摘 読。

家屋というのは、すべて伝統的な模範にのっとって建築されたり改築されたりするものである(と、ブローデルは言う。昨今の日本の建築にそれが当てはまるのかどうかはわからない)。ただ、多くの地域では保存されてきた家にせよ、修復された家にせよ、18世紀はおろか、16世紀、さらには15世紀、あるいはもっと昔にまで連れ戻されるような思いをする家屋がたくさんある。一軒の家は、どこにある家であろうと持続してきたのであり、諸々の文明・文化 ――それらは執拗に保全し、維持し、繰り返そうとする―― が緩慢にしか変わらないことを証している。

建築資材は、いうまでもなくその地域の自然資源の状況に依存する。石や木材に乏しいペルシアでは日干し煉瓦を用いていた。石は貴重であったため、木材などと併用された。西ヨーロッパや地中海地域の場合は、石の文明が定着するまで何世紀もかかった。採掘した後、細工が施しやすく、また空気に触れると固くなる石を選ぶ必要があった。パリは、周辺に多くの石切り場があった。その石を多く用いたために、パリは巨大な空洞の上に築かれることになってしまった。ただ、昔からずっと石造都市だったわけではない。18世紀ごろまでは木造建築も多く、火災も少なからず生じていた。頻発する対価の結果として、石造建築や瓦屋根が普及したわけである。とはいえ、それも富裕層の象徴であった。それ以外のヨーロッパでは煉瓦が緩慢にではあるが普及していった。やはり、そこには防火という側面もあったが、見栄えという点もあったようである。ともあれ、建築資材がすべて置き換わるなどということはなく、木材や煉瓦、そして石などが併用されていた。

北欧や中央、東欧など、森林資源に恵まれた地域では、木材が当然ながら主たる建築資材となった。

一方、木材が贅沢品となる地域では、土や粘土、藁が建築資材となった。中国では、場所によっては木材がきわめて乏しい地域もあった。したがって、骨組みこそ木材であったが、竹を使うこともあり、また荒壁土や茅葺屋根、藁屋根など、比較的軽い素材で家を建てるのが一般的であった。遊牧民の場合、その生活様式にもよるであろうが、フェルトや毛織物でできた幕屋を住居としている。

さて、ここまでは地域と自然資源を手がかりに住居を見てきたわけだが、都市と農村という区分もある。農村においては、今述べてきたような点が、日常生活のなかで蓄積された知恵とも相俟って、住居のつくりに反映されてきた。なかには、変化を重ねつつも、今日まで歩み続けてきた村や家もある。たとえば、サルデーニャ島などにそういった家がみられる。

一方、都市の場合は貧富の差がより歴然としていた。裕福な層の家は、今もいくつかが残っており、訪れることもできる。これに対して、貧困層の家はまことに汚らしく、蚤や南京虫に悩まされるような不潔な家であった。

手っ取り早いところでいえば、『レ・ミゼラブル』でのパリの住まいをイメージしてもそう大きく外れることはないだろう。
日本の場合であれば、以下の町家の文献からも裕福度の違いを窺い知ることができる。

こういった貧困層の家の衛生状態の悪さはパリに限られたことではなく、他のヨーロッパの諸都市でもみられた。

18世紀になって、それまでの生活と大きな違いが生まれることになる。それが職住分離である。これはヨーロッパだけでなく、中国においてもみられた現象である。職住分離は、妻を主婦として家に住まわせるという事態をもたらした。それまでは、主人なり親方なりが職人や徒弟たちを仕事場を兼ねた自宅に住まわせていた。それが一変したわけである。

そして、このことは都市に繁栄を、別の言い方をすれば贅沢をもたらすことになった。これは、農村にも変化をもたらした。都市で裕福になった市民たちが農村に投資するようになったのである。都市周辺の農村は、こういった〈欲望〉の対象となり、昔ながらの農村は縁辺地帯にしか残らなかった。この残された農村地帯というのは、都市にいる地主がそこを監督していたからである。その土地は財産であり、権利であり、さらにそこから小麦やぶどう酒、家禽を取り寄せもし、さらには別荘としても用いられた。同じように、都市の裕福な市民たちは周辺の農村地帯に別荘を構えるようになった。似たような現象はイスタンブールや中国など、他の地域でもみられた。

さて、室内に目を転じよう。
もともと貧乏な人たちというのは、無一物であった。それゆえ、家具などというものを持ってはいなかった。ガスコーニュ地方は実りある土地であるにもかかわらず、人々は「炉辺に腰を下ろして、テーブルなしで食事をし、全員が同じ湯飲みで飲む」のが一つの慣わしであった。

また、伝統的文明は、習慣的な舞台装置を忠実に守ってきた。こういった室内の設えはそれぞれの文明や文化にかなり深く根差している。家の装飾全体が経済的・文化的な幅広い動きを証し立てていた。具体的には、嵌め木床や壁、天井、戸、窓といったところに、さまざまな装飾がなされた。戸や窓に関しても、今のようなガラスが普及するまでは、布や紙などを代わりに張っていた。

寒さの厳しいヨーロッパにとって、暖炉は重要な位置づけにあった。とはいえ、12世紀以前には台所の真ん中に円形のかまどが据えられていたに過ぎなかった。その後、暖炉は広間にも据えられるようになり、装飾性も高まっていった。しかし、暖炉としての機能が向上するのは、もっとあとのことで18世紀初頭になってからのことである。ヴェルサイユ宮殿においてすら「グラスのなかのぶどう酒も水も凍りついてしまう」ほどの寒さだった。18世紀の初めごろになって、ようやく暖炉革命が起こった。ただ、それは燃料の節約という方向には進んだわけではない。

さて、こういった室内装飾や家具はそう急激に変化するものではなかった。そこには、建築様式や屋内配置によって左右されざるを得なかったという事情がある。ただ、室内装飾や家具は、同時に社交の場でも人目に触れるものであった。それゆえに、金、銀、メッキなどの金属加工や戸棚などの彫刻、細工などが生み出されていった。ただ、大事なことはそれぞれの家具を立ち超えて、それらがいかに配置され、いかなる雰囲気を醸し出し、いかなる生活技術を踏まえているか、である。つまり、生活空間そのものなのである。そこには、地域ごと、あるいは時代における好みや欲求が反映されている。また、同時にそれぞれの地域における経済的繁栄も色濃く影響を及ぼしている。そこには、社交という側面がきわめて大きな比重を占めていた。ところが、18世紀以降個人個人が自らの私生活を護っていくようになる。壮大好みは消え失せたとはいえ、個々人の他者を意識した気どりがそれに取って代わったわけである。

とはいえ、こういった装飾が転変しつつ進んでいったとしても、衛生的な側面が進展したわけではなかったし、暖をとることをはじめとして、機能に関する飛躍的な進歩があったというわけでもなかった点は、あらためて確認しておいてよいだろう。

私 見。

住まうというのは、ある空間に人が在るということである。もともとは家族が住まうというのが当然の出発点である。が、人が社会的存在であることを考えると、招き、歓待するということも、住まう空間には付随してくる。だからこそ、装飾しようとするわけである。

同時に、住まうための資源は、その周辺地域の天然資源に依存する。上にも掲げたが、『木材と文明』は林業という視点から、ヨーロッパにおける生活や産業の展開をたどっている点で興味深い。

また、この章で18世紀以前と以降が転機として描かれている。ここには、〈勤勉革命;the industrious revolution〉の生成をみてもよいだろう。個人レベルでの贅沢ということが意識されるようになったのが、まさに18世紀以降とみることができるかもしれない。

それにしても、食べることよりはるかに、住まうこと、そして次のテーマである装うことには贅沢という側面が濃厚に滲み出てくる。食べるというのは、同じものを共に、という場合が多い。それに対して、「住まう」あるいは「装う」は他者との違いを顕在化させるところに特徴がある。ここにも、贅沢、あるいはラグジュアリーという側面が出てきやすい理由を見出すことができるかもしれない。

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