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「決める」に「やりたい・なりたい」は必要か

前回はこんなことを書いた。

やりたいことがなくても、決めることができる。それが本質だと思う。やりたいことがないと、前に進めないのであれば、大半の人の人生はずっとやりたいこと探しの旅になってしまう。人生にはその一面もあるっちゃあるが、大半の人は割り切って、物事を決めていって前に進んでいく。その現実的な方法について、これまで考えてきたことを書いてきたいと思う。

タイトルの問いに対しての結論を述べるなら、決めるのにやりたい・なりたいは必要条件ではない。おそらく十分条件(やりたい・なりたいがあったら、決めることができる)でもない。やりたい・なりたいと決めることは独立しているとまでは言わないが、それぞれ個別に考えてもいいことだと思う。

決めることは自分の外側から求められて否応なしに前に進むために、するべきことでもある。やりたいとかなりたいは外側からの刺激を内側に取り込み、内側で発酵熟成させて、外側に出ていくものであって、そのスピード感や発芽するかどうかには個人差がある。

しかし、決めるということは、同じタイミングで求められることが多い。人生の分岐点だ。これは制度(主に教育政策)が生み出したものだ。高校にいくかどうか、何を学ぶ学校にいくか、文系・理系をどうするか、就職するか進学するかなどである。どれもまるで理不尽なまでに、世の中や学校のスケジュールによって、暴力的に定められている。政策が想定した通りに学んでいけば、そのときまでに考える材料と力は揃っているのだろうが、そんな人は1%くらいしかいないだろう。

だから、決めるときに、やりたい・なりたいがなくても、心配しないでいい。世の中が勝手に決めたスケジュールなのだから。そのときまでにやりたいことに確信が持てていればラッキーだ、運がいい。ないならないで、どう決めるかに集中して、最良の選択をしたほうがいい。そうやって心を決めれば、周囲には助言してくれる仲間がたくさんいるし、情報の見え方も変わってくるだろう。

なりたい・やりたいは環境や時代の制約をかなりうけるが、自分がどうありたいか、価値観と言われるものは、環境や時代の影響は受けても、制約は受けにくい。決めるときのよりどころにもなる。

そして、決めることが決まっていれば、何を選ぶのか、選択肢にも目処がついているはずだ。限られた選択肢の場合もあれば、膨大な選択肢の中から選ぶ必要がある場合もある。前者も後者も、自分だけの力でなんとかしようとしないことだ。周囲に頼ってみよう。自分だけの狭い視野では見つからないものも見えるし、助言によって自分の強みや価値観も相対化することができ、理解が深まるだろう。

続きは、また。


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