歌の先生が「大きな声で!」と言ってはいけない7つの理由。
きっとみなさんも経験があることでしょう。
卒業式の合唱練習のときに先生から「もっと大きな声で歌って!」と言われたり、合唱コンクールの練習のときに指揮者から「聞こえない!」って言われたこと。
あれって、しんどいですよね。
歌ってる方はちゃんと歌ってるつもりなのに、「もっと!」と言われたり。あるいは、大きな声を出せない事情があるのに「出して!」という要求だけされつづけたり。
僕にはときどき、一般の方たち向けのミュージカルワークショップで歌唱指導をやったり、歌が専門ではない表現者に対して歌のレッスンをしたり、あるいは小学校や中学校へ外部講師として赴いて歌を教えたりする機会があります。
そういった場では、できるかぎり「大きな声で歌ってください!」とは言わないようにしています。
なぜ、歌の先生が「大きな声で歌って!」と言わない方がいいのか。
僕がそう考える理由を書いてみたいと思います。
なおここから先の考察は「アマチュアをメインの対象とした場」を想定してますので、プロの現場では当てはまらないこともいくつかあるかもしれません。
1、萎縮させてしまう
指導者として「大きな声で歌ってください」と要求したくなるときというのは、当然、「目の前にいる人たちから生み出される歌声のヴォリュームが小さい」と指導者側が感じたとき。
そんな瞬間に想起したいのは、「小さい声は困るから大きくさせよう」という歌う側への要求ではなく、「どうして大きな声が出てこないんだろう」というその状況に対しての問いです。
大きな声で歌えないことには、それ相応の理由があるはずです。しかも、多種多様な。
緊張している
朝だから体が起きていない
歌声にコンプレックスがある
音程や歌詞を覚えきれていなくて不安がある
体調が悪い
もともと大きな声を出すことに心理的抵抗がある
大きな声を出せない身体的特徴がある
変声期である
ほかに大きな考え事・関心事がある
そもそも大きな声で歌う方法がわからない
自分では大きな声で歌っていると自認してる
ざっと挙げただけでもこれだけの理由が考えられますが、本当はこれよりももっとたくさんの要因によって「結果、大きな声で歌えていない」という状態が引き起こされています。
そうして表出している「結果」には必ず「原因」があるわけです。
この原因を察知し、適切な対処をしようとせずに、「結果がダメだから結果を直せ!=大きな声が出てないから大きな声を出せ!」と要求するのは、あまりに横暴なやり方だなあと僕自身は感じます。
そんなやり方をされたら、歌う側はどんどん萎縮してしまい、本来なら大きな声を出すポテンシャルを持っていたとしても萎縮した分だけ「大きな声」からは遠ざかっていくと思うのです。
2、歌う楽しさを奪ってしまう
1の萎縮させてしまう、に関連するのですが。
歌う側それぞれにそれぞれの原因を抱えて「大きな声を出せない」状態になっているのに、それに対して萎縮させてしまうような要求を投げ続けてしまうと、どんどんと楽しさが失われていくと思うのです。
プロの仕事の現場ではもちろんのことですが、学生やアマチュアの現場ではなおのこと「楽しさ」をみんなが共有できているか、がとても大切だと思うのです。
みんな、苦しい思いをしたくて歌いにきているわけではないはず。
それに、教育現場での音楽の時間というのは、全員が全員歌いたくてそこにいるわけではない。音楽が心の底から好き!という生徒児童はその場にいる10〜20%ぐらいなもの。
そんな状況で、指導者が萎縮させるような言葉しか用いないとしたら。それが生む悲劇は目に見えていますよね。
歌うことに楽しさを感じられる空間を生み出すの、大事!!!!!
3、喉を壊すリスクを高める
これ、本当に危ないです。
結果として大きな声が出ていない状況の本当の原因を探ろうとせず、また、大きな声という表現を生み出すための方法を教えず、ただ「大きな声を出して」とだけ要求をすると、多くの人が、叫ぶことに近い「大声を出す」という対処法で解決しようとします。
そりゃたしかに、叫べば大きな声は出ます。
叫ぶことに伴う身体的負荷が大きいぶん、「自分はいま大きな声で歌ってる!」という達成感や爽快感を感じやすくなります。
外に出てくる表現としても、たしかに「大きな声で歌えてなかった」という状況は解決されるので、指導する側もその結果に満足しがちです。
でも、「叫ぶ」と「歌う」は大違い。叫ぶことによって喉に異常な負荷をかけ続けてしまうと、それによって声枯れや声帯結節、ひどい場合ではポリープといった故障を生んでしまう可能性が高まります。
指導者としては、「楽しく・安全に歌える場」を用意する努力を常にし続けたいものですから、歌う側の故障リスクを高めるような方法をとることは、自分の指導法の選択肢からさいしょに外すべきだと思います。
4、表現が平板化してしまう
大きな声を出したことによって褒められるという経験を積みかさねると、それが一種の成功体験となって、「上手く歌うには大きな声で歌えばいい」という発想になりがちです。
けれど、歌って本来はそんなに単純じゃないわけで。
音楽表現のなかで、囁くような声が必要な場面もあれば親が子を諭すような声が必要な場面もある。不安で押しつぶされそうなか細い声も、怒りに打ち震えた押さえ込んだ声も、初恋を告白する上ずった声も、どれも大切な表現のひとつ。
大きく太い声だけが賞賛され続けると、そういった多彩な声たちの価値を軽視するような思考に偏ってしまう危険性があります。
その結果、繊細な表現が必要な場面でも、大きくて小回りのきかない声しか使えずに、表現が平板化してしまうことになります。
これは僕のポリシーなんですが、歌を歌う上でNGな声は存在しないと思うのです。
人にどれだけ「か細い声」「汚い声」「情けない声」と言われているような声でも、曲と場面によっては、それこそが求めている声なんだ!!って瞬間はぜったいにあるのです。
自分の持っている声に優劣をつけない。自分から出る声はぜんぶ大切にする。
どんなに”変な音”でも、表現のパレットの上にのせればたちまち大切な絵の具のひと色となる。
そう思っているからこそ、大きな声だけが素晴らしい、それ以外の声はダメだ、というようなマインドを、学生やアマチュアに刷り込む危険性のある指導はしたくないなあと常々感じています。
5、コミュニケーションが生まれにくくなる
これは、ちょっとだけ書き表しづらいトピックなのですが頑張って書いてみます。
僕は、音楽表現や舞台表現の根底にはいつも「コミュニケーション」があるべきだ、と考えています。いまのところ。
たとえば合唱でいえば、一緒に歌う人たちとのつながりを感じて歌うことがとっても大切だと思うのです。あるいは、歌い手と指揮者とのつながりや、伴奏者と歌い手と指揮者とのつながり。
そういったつながりを保ちつつ、演奏中もリアルタイムで相互に影響し合う。コミュニケーションが幾重にも有機的に積み重ねられていくことで、音楽表現や舞台芸術の魅力が何百倍にも膨れ上がっていくのだと考えています。
とすると逆に、そういった表現の魅力を半減させる行動というのがみえてきます。
ズバリ、「ひとりよがりな表現」です。
大きな声を出すという行為は、「ひとりよがり」な状況を生み出しやすくさせるのです。
「ひとりよがり」を言い換えると、「自分のことを考えるのにいっぱいいっぱいで、周りの状況に割くリソースが枯渇している状態」になるんじゃないでしょうか。
試しにめちゃめちゃ大きな叫び声を出しながら、本を読んだり、料理をしたり、人とあやとりをしたり、あるいは会話をすることを想像していただきたいんですが、どうでしょう。それぞれの行動、うまくできそうですか?
これは極端な実験ですが、「大きな声で歌えといわれたから大きな声で歌う」というのは、これと似た状況をつくりだすわけです。
周りの声は耳に入らない。伴奏の音も聞けない。指揮者の表情や状態にも機敏に反応できない。その状態ではやはり、コミュニケーションは生まれにくいのです。
さらに、コミュニケーションは周りにいる人たちやミュージシャンとだけでなく、その曲を作り出した作曲家や作詞家とのあいだでも繰り広げられるべきです。
けれど、大声を出すことに必死なあまり、メロディの進みたい方向や、詩の言葉が持っているニュアンスを見落としてしまうとしたら。
表現の深淵を楽しく探索するためにも、周りや楽曲とのコミュニケーションを見失ってしまう状況をあえて選ぶ必要はないんじゃないかな。
6、将来に渡る負の連鎖を生む可能性がある
指導者として考えたいのは、目の前にいる人たちとの時間だけではありません。
もしかしたらいま自分が指導している人の中には、別の場所で指導者としての仕事をしている人がいるかもしれません。あるいは、将来歌を教える立場になるような若者も含まれているかもしれません。
そうなったときに、いま自分が「大きな声で!」と要求することで、そういった人たちが別の場所で別の誰かに「大きな声で!」と要求することの後押しになったとしたら。
いままで挙げてきたような「大きな声で!」の弊害が、未来にも続いていく可能性があります。まさに負の連鎖。
それはねー、僕はねー、断ち切りたいと思うのですよ。
音楽に触れることで傷ついたり悲しんだり、自分を否定してしまうような気持ちになる人をゼロにしたい。それは、僕が直接に携わることのできた人だけでなく。世界中のすべての人、これから生まれてくるすべての人に対してもそう思うのです。
7、指導者が成長しない
いままで書いてきたように、「大きな声が出ない」という結果を生む原因はさまざまです。
たとえば1で挙げた「緊張している」という参加者の状態だって
初めての場所で緊張している
知っている人がいないから緊張している
知っている人がいるから緊張している
人がいる場所だといつも緊張する性質を持っている
本番が近づいていて緊張している
指導者に怖さを感じていて緊張している
など、より細かい状況が想像できます。
そういったさまざまな状況・原因を抱えた参加者たちに「大きな声を出させたい」のならば、その解決法はほんとうに多岐に渡ります。
緊張をほぐすためのワークを入れる。自己紹介のゲームをする。面白い話で笑いを生む。みんなでお菓子を食べる。「不安でも平気だよ」と声をかける。休憩時間に別室にて個別で話を聞く。音楽のなかで楽しさを伝え続ける。
緊張の解決の仕方も、いくらでも考えられます。
大きな声で歌いづらい人に対してだって、発声などの技術的な解決法も心理的な解決法も、いくらでも発想できるはずです。
その場、その人、そのタイミング、その状況に適切な解決法を常に考え続け、その瞬間のベストな方法を選び続ける努力をする。それが、指導者に必要な考え方なんじゃないかなと、僕は思います。
その点、「大きな声出して!」の要求には、いっさいの思考が含まれていません。参加者の状況に対する想像も必要なければ、なんなら、参加者の状態の観察も必要としません。まさに「ひとりよがり」で「コミュニケーションの欠如」した指導です。
つまり、「大きな声出して!」は、簡単なのです。歌の指導者が選ぶことのできる、最も簡単な指示のひとつだと僕は思ってます。
(ちなみにもうひとつの最も簡単な指示は、「音程正しく歌ってください」)
指導者に負荷のかからない、試行錯誤の必要ない指導法ばかりを選んでいたら、そこに成長はありません。それってとってももったいないことだし、歌を教わる参加者に対して不誠実だなと思うのです。
同じ状況は二度とこないし、同じ人だって1秒ごとに変化していくのです。
その瞬間を大切にしつづけようとすればするほど、「大きな声で歌って!」という表面的な要求はふさわしくないのだと気付くはずです。
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ひとりでも多くの人が、楽しくて安全な音楽の場を体験できますように!!!!
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。