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私にとってサッカーとは


自分にとってサッカーとは『自己研鑽』に他ならない。


プロになれると思ったことはないけど大学まで16年真剣にサッカーを続けて、社会人になってからも週一練習、週末試合と続けている。もちろんサッカーは死ぬほど好きで楽しいが、社会人になってからするサッカーには何か物足りなさを感じている。その理由を言語化してみたのがこの初ノート。

私が思う“物足りなさ”の正体は、社会人サッカーは自分を磨く領域ではないということ(チームによってはものすごくガチのとこもあるので一概には言えない)にあると思う。あくまで楽しむことに重きを置いている感じ。

例えば、田舎の弱いの高校から出てきて挑戦した大学サッカーではみんなが上手すぎてついていくのが精一杯の中、どうすれば試合に出られるかを模索し続ける日々があった。
技術では敵わないが、ポジショニングなら今からでも身につけられたり、みんなの真似をしてみるとすんなりできたことがあったり、高校時代の軍隊トレーニング(今思うと選手を破壊するだけの愚行)のおかげで身についた90分間インテンシティ高く走り続けられる体力と気力は周りと比較しても抜きん出てるよな?思うとそこが自分の強みになったり。

何を伸ばしてどうすれば試合に出られるかを考えて戦略的に毎日練習したり、キツいと思った時に自分がどういう思考回路になるかとか、こういう心理的状況ではどうするとうまくいくっていう自分ルールとか、モチベーションを無理矢理にでも上げる方法とか、とかとか、etc...これらはサッカー以外でも活きる力やなぁと。
生きていく上で本当に大事なことを学んでいたのだと、今ならハッキリと言える。

サッカーは〝実学”である 。


福沢諭吉は実学を『将棋や碁の“定石”の如し〜』と例えて言っているが、まさにサッカーは“定石”を築くための自己研鑽の1つだった。それも自分にとっては現時点で最も時間を割いてきた最強の実学。

自分よりも遥か上の存在が常にいる中で思考錯誤していく過程が〝自分の型” を作った。

『自分から“それ自体”を取ったときに力を身につけること』それこそが自己研鑽であると思うし、自分にとって“それ”はサッカーだった。

そして強く自分の中に残すには、圧倒的な熱量が必要で、それが今の私にとっては何なのかなぁとなってしまっているのが大問題。
仕事がそこに当てはまると最高の状態やなぁと思う。どれだけしんどくても、自分史上今日が最強と毎日思える状態。今はサッカーに代わる何かを見つけるべく毎日を生きている。

備忘録。

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