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そもそも哲学って、なんだろう。2人の哲学者に聞いてみました。

山梨県立大学には2人の哲学者がいます。橋本憲幸先生と橋爪大輝先生です。おふたりの本を読み、心を動かされた私(兼清:山梨県立大学国際政策学部・地域研究交流センター運営委員)は、先生方にトークイベントの開催を提案したところ、快く応じてくださいました。

テーマは「哲学は地域社会の課題解決にいかに貢献できるか」。開催にあたって、山梨の課題解決に取り組んでいるブランディング会社「DEPOT」の斉藤奈央さんに協力していただきました。

2023年7月27日(木)に開催したイベントで語られたことを書き起こし、読み返し、一部は加筆し、修正しました。最後まで読んでいただけますと幸いです。登壇者の3名をご紹介します。

橋本憲幸(山梨県立大学国際政策学部)
福島県田村市出身。2015年4月に山梨県立大学国際政策学部に着任。筑波大学第三学群国際総合学類卒業。筑波大学大学院一貫制博士課程人間総合科学研究科修了。博士(教育学)。主著に『教育と他者——非対称性の倫理に向けて』(春風社、2018年)など。

橋爪大輝(山梨県立大学人間福祉学部)
東京都多摩市出身。2021年4月より、山梨県立大学人間福祉学部講師。東京外国語大学外国語学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科(倫理学専攻)博士課程修了。博士(文学)。著書に『アーレントの哲学』(みすず書房、2022年)。

斉藤奈央(株式会社「DEPOT」プランナー/ディレクター)
山梨県甲斐市出身。山梨県立大学国際政策学部に在学中、(株)DEPOTにインターンとして参画し、そのままメンバーに。山梨県だからこそできるクリエイティブがあると信じ、日々向き合い中。


橋〜世界を切り離しながら、結びつけるもの

ーーまず、橋爪先生から自己紹介をお願いします。

人間福祉学部に所属していますが、哲学と倫理学を専門としています。博士論文まで、ハンナ・アーレントという哲学者について研究しました。哲学の研究には何パターンかあるんですが、一つのパターンとして、1人の哲学者が書いたものにひたすら付き合ってそれを解釈していくという方向性があります。私はそのパターンで、アーレントという哲学者を取り上げました。

また、人間福祉学部に所属しているということで、福祉、ソーシャルワークといったことにも哲学的にアプローチできる面があるんじゃないかという関心も最近は抱いています。

私がなぜ哲学を学んでいるのかを自己紹介で話すように、と事前に打ち合わせていたのですが、多分、哲学的な関心を割と持つ子どもではあったんだろうなと思います。自分の周囲の世界で本当に現実に存在しているのだろうか? そういうビジョンを見せるような幻覚があれば、まわりの世界というものは存在していると思い込めるのではないか? そのようなことを、子どものときから考える性格でした。

ただ、これはわりとありがちな話でもあって、あまり面白くないので、なにか違う切り口からお話ししたいなと。それで、今回お話をさせていただくにあたって、まず橋本先生と私になにか共通点はないかな、と考えていました。それで気づいたのですが、二人とも名前に「橋」が入っています。そこで、ゲオルグ・ジンメルという人が書いた「橋と扉」というエッセイを思い出しました(ゲオルク・ジンメル1909「橋と扉」北川東子編訳、鈴木直訳『ジンメル・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年)。

橋というと、結びつけるという意味を思い描かれる方が多いのではないかと思います。たとえば架け橋というような言い方をするように。ですが、ジンメルは、橋の別の側面に着目します。ジンメルは、こう言っています。

「人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在であり、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ。だからこそ私たちは、二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を、精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで、それをふたたび橋で結ぼうとする」
(ジンメル 1909=1999: 100)

このジンメルの指摘が非凡だなと思うのは、橋は結びつける以前に――あるいはそれ以上に――切り離すものだということを指摘していることだと思うのです。川が流れていたら、岸と岸の間が分断されているわけですが、あくまでも人間が渡れないという状況にあるから向こう岸とこちらの岸が分かれていると考える。土地そのもの、地理的な空間そのものは、大地を通じて繋がっているわけです。だからある意味、世界はそうやって捉えたら、本来そのどこにも切れ目なんて入ってない。すべてシームレスに繋がっているともいえるわけですね。それを人間が切り離すわけです。このエッセイのジンメルでは、その世界を切り離しながら、結びつけるということの比喩として、橋を捉えている。この、切り離しながら結びつけるというのは、私はものすごく基本的な次元で哲学という営みにも通底する発想だと思うのです。

もうひとつ引用します。『〈個〉の誕生』という本です(坂口ふみ、2023 『〈個〉の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』岩波現代文庫)。

これを引っ張ってきたのは単純な理由で、私が最近読んで非常に面白かったからです。その中にこんな引用がありました。

「…ギリシアが後世に与えたもっともギリシア的なものは、常識的な結論だがやはりそのかっきりとした概念性、規定性、そしてそれらを結びつける明晰な論理の法則、およびそういうものを、このゆたかで不定形な生と世界のうちで見いだしてゆく方途を与えたことだろう。」
(坂口 2023: 29)

概念というのは、要するに、世界からその世界の一部を切り取るわけです。世界は基本的にシームレスで全部繋がっていると言えるわけですけれど、たとえば、この舞台上のスクリーンで言うと、それを「スクリーン」という概念でとらえると、スクリーンの空間の一部だけが切り取られて、別のものは背景に退く。スクリーンにフォーカスを当てるということが人間にはできる。だけど、切り離して終わりではなくて、それをほかの概念とさらに結びつけて考えたりする。たとえば、このスクリーンが壊れたときに「このスクリーンは壊れている」と言えば、それによってスクリーンについて情報量が増えたり、だから直さなきゃいけないとなってくる。論理をつうじて、概念同士が結びついてくるわけですね。

人間は身のまわりの出来事や現象、事物を――さらにこれが結構重要だと思うのですが、自分自身というものも――切り分けて、概念を与えて、それで初めて理解できる。そういう生き物だと思うのです。

切り分け方には、うまい切り分け方とか、下手な切り分け方が思うのですが、哲学の使命のひとつは、この世界を切り分けることをうまくやることだと思っています。そうすることで、説明したり、理解したり、あるいは場合によってはそれを的確に操作したりする。たとえば、今この舞台の上に椅子を4つ上げていますけど、椅子を4つ上げてと言うことによって、この壇上のセッティングを作ることができる。世界を操作するうえでも、概念を使って分節化することがとても重要なのです。

私自身は今、人間福祉学部というところに所属して、福祉を学ぶ学生を中心に教えています。これ自体は全くの偶然です。だから、そのことに意味を与えるのは、後から振り返って、まさしく自分の生きてきた生をどう切り分けてどう結びつけるか、になると思うんですね。私自身たとえば、なぜ福祉を学ぶ学部で哲学を教えているのだろうということを、自分に問わずにはおれない。まだ現在進行形の答えであって、確定的な答えだという確信はないのですが、福祉という場所では他者に関わることも必要だし、自己を見つめることも必要です。何よりわかろうとしなければならない。わかる(分かる)というのは、要するに〈分けられる〉ということですから、世界を切り分けて、その間の関係をうまくつけることができるということが、わかるということだと思うんですね。そのためには言葉と論理が必要であると。哲学というものが与えてくれるのは、おそらくそれなんじゃないかなと今思っています。

たとえば、自分の感情。感情は自分にとってあまりにも近いものです。体験しないことができないぐらい、そのままストレートに身近にあります。だけど、それに言葉で輪郭を与えるのはすごく難しかったりする。自分が感じているのは怒りなのか悲しみなのか、それが微妙に入り混じったものなのか。そういう意味では、実は外界について語ることは簡単だったりするわけです。たとえば今見える外界は、テーブルの上にパソコンが載っていて、みたいな形ですごく綺麗にくっきりと分けて理解できる。感情はこういうふうに扱うのは難しい。その意味では、外の世界よりも自分の内面のほうが遠かったりする。こういう場面において、どういう的確な言葉が与えられるのだろうか。哲学は、こういう部分を掘り下げて考えられるのかもしれない。

もちろん一方で、言葉で輪郭を与えるということは、先ほどの引用にもありましたが、豊かで不定形な世界とか豊かな個別性が失われてしまう危なっかしさと隣合わせでもあるというところには気をつけなきゃいけない。感情というものに言葉を与えてしまったら、自分がこう感じてるんだという形で間違って理解する危険性もあるし、言葉が切り分けられない複雑さがあるかもしれない。

「橋」というところからだいぶ遠くまで来ましたけれども、私が今、この大学、この学部で哲学を教えることについて、少なくとも現時点でどんな意味を見いだしているかということをお示ししたということで自己紹介にかえたいというふうに思います。

ーーありがとうございました。橋本先生、今の橋爪先生の自己紹介について、感想を一言お願いします。

ジンメルをこういうふうに捉えていなかったので、新鮮で勉強になりました。私は国際協力にも関心を持っていて、そこでは研究・理論と実践・実務をどのように架橋すればよいかが大きなテーマになっています。私は結び付るよりも、むしろ切り離すほうに注目したい。違うからこそ、そこに橋を架けるということができるわけですよね。その違っているところ、違っていなければならないところをうまく認識したいと思っている。そのこととつなげながらジンメルの話を聞いていました。

哲学とは、ゼロから考えること。そして行為すること

ーーでは、橋本先生、自己紹介をお願いします。

橋本憲幸と申します。山梨県立大学国際政策学部国際コミュニケーション学科に所属しています。学部生時代は国際関係学や国際開発学を勉強していました。元々は国連で働きたかったのです。ユニセフやユネスコですね。それが途中でそうではなくなったという話をすることで、なぜ哲学なのか、哲学するとはどういうことなのか、その一例を説明できたらいいかなと思っています。

私の場合、哲学は独学です。先ほど言ったとおり学部では国際開発学を学び、大学院では教育学を専攻しました。哲学科の出身ではないし、大学院でも教育哲学の研究室に所属していたわけではありません。だから専門的な、オーソライズされているような訓練は受けていません。

中学、高校のときは、政策科学という分野にすごく関心がありました。学問は役に立たなければならないと考えていたのですね。今はそういうふうに考えていないわけですが、当時は学問とか研究といったものは、実際に何かに役に立たないことには存在意義がないのだ、くらいにまで思っていて、それは将来国連で働きたいと、たとえば子どもたちの貧困をどうにかしたいとか、学校に行けない子どもたちをどうにかしたい、そういう純朴な気持ちが強くあったからです。

ただ、教育学の大学院に進んだ2年目の夏にバングラデシュに行ったことで変わりました。バングラデシュに行ったのは、実は大学の3年生と大学院の1年目にも行っているので、このときが3回目です。この大学院2年目の夏、23歳でしたか、自分はいったい何をやっているのだろうと思うことがありました。印象的な、象徴的な出来事があったのです。

バングラデシュは当時アジアの最貧国と言われていました。私が大学3年のときにどうしてバングラデシュに行こうと思ったのか。日本と近いアジアの中で最も貧しいと言われている国がどうなっているのか、そこで人びとはどういうふうに暮らしているのか、それを自分で直接確認したいと思ったのです。自分で直接見たり聴いたり嗅いだりしたこともないのに、国際開発を語るとか、援助を語るということはできないのではないかと思って行ってみたのです。

大学院2年目の夏の調査は、3週間ちょっとぐらいでしたでしょうか、1人で行きました。そのときにある出来事がありました。それは、通りを歩いていたら、私の目の前に、赤いワンピースを着た女の子が急に出てきて、その子は裸足で、こういうふうに手を出すわけです。この意味は明らかで、お金をくれということなのですが、そのとき私は固まってしまったのです。いや、でも固まったと言っても頭の中では考えがものすごく巡ったのです、いまこの子にお金をあげることができなくはない、でもお金をあげることは本当に正しいのか、自分は教育に関心があるからいまこの子の手をこうやって握ってNGOのところに連れて行ったほうがいいのか、あるいは自分の調査でいまバングラデシュの教育省に行っているからそこでこういう問題があるじゃないかと直訴すればいいのか。いろいろワーッと考えて、でも、実際には3秒ぐらいで終わっている。そのあいだにその子どもはいなくなりました。

それで結局、自分はどうするのがよかったのだろうか、よくわからなくなってしまって、その調査期間中ずっとそういう問いが突きつけられていました。助けるとはどういうことなのか、とか、自分に他者に教育を通して関わる資格があるのか、とか。私がいちばん悩んだのは、たとえばここで何かをやったとしても、調査が終わったら自分は日本に帰ってしまう。ずっとバングラデシュで援助活動する覚悟はなかったわけです。すごく中途半端で、いったい自分は何やっているのかなということを考えていたわけですよね。そもそも他者と関わり、助けるとはいったいどういうことなのだろう、そもそも自分はバングラデシュの子どもたちに関わっていくのだろうか、それができるのはどういう人なのか、とか。自分の傲慢さというか身勝手さというか、そういうものに気づいて、よくわからなくなってしまいました。

そんなことを考えていくと、今から思えば、哲学、あるいは実践哲学、倫理学という分野にすごく近づいています。どういうふうに他者へ関わるのがよいのか、そもそも関わるべきなのか、援助するとはどういうことなのか、もっともよい他者への関わり方とは何か、こういったことは実は哲学とか倫理学で問われてきたことなのです。だから、私の場合にはその哲学がしたいと思って哲学のほうに進んできたというよりも、よくわからなくなって考えているうちに、気づいたら哲学という分野に手を出してしまっていたというか、そこにいたというか、そういう経緯なのです。哲学だったら、もしかしたら自分がこういうふうに問うてきた事柄に対する答えを出すこともできるかもしれない。そう思って自分なりに勉強をしてきました。

教育に関心があります。教育哲学です。開発の事柄にも関心があります。ここで「脱構築」というテクニカルタームを使ってしまってしまいますけれども、これまでの教育の捉え方だとか、これまでの開発の捉え方について、その前提をいったん疑ってみて、もう1回自分で考え直してみようというようなことをやってきたつもりです。ただ、脱構築のイメージとして、私は解体することも重要なことだと思ってはいるのですが、その解体したあとどうするかということも考える必要があるのではないかと考えています。再構想ということですね。つまり、これまでの議論で言われてきたよい教育やよい開発ではない、もっと別のこういう教育がよいのではないかとか、こういう開発もありうるのではないかとか、そういうことも言っていきたいなというふうに思っています。それはいま盛んに言われている持続可能な開発、SDGsといったものに対しても、また別様のものを、オルタナティブを、という姿勢を持っていたい。いま言われていることをそのまま受け止めない、それでよしとしない。いまあるものではない何かをつねに考えてやってきているところがあると思います。

哲学するとは、どういうことなのかという話になりますが、いま言ったように、おそらく、それはできるだけ前提を外すということなのだろうと思います。少なくともそれが含まれている。できるだけゼロに近いところから自分の思考を立ち上げていく、それが必要だと思うのですよね。

でも、これは結構難しいと思います。私も自分でできているとは思えない。だから哲学者と言われることにはちょっと恥ずかしさというか、やや居心地の悪さというか、そういうふうに呼ばれていいのかなというところが実はありながら今日はここにいるのですけれども、それでもできるだけゼロに戻す、できるだけ最初から自分で考えることは心がけています。また、目の前のことを全部理解したい、丸ごとわかりたいみたいな欲望もありますね。

「哲学に、聞いてみる。」というのが、この催しのひとつのテーマになっていますが、聞いてみたあとどうするのか、ということがやっぱり大事になってくるかなと思います。

それで、哲学するとはどういうことか。哲学とは何かでなくて、哲学するとはどういうことか。そのように問うのは、私は哲学とは行為だと思っているからです。行為、自らすることだと思っているので、哲学に聞くということもひとつの哲学的な関心の持ち方だとは思うのですが、聞いたあと自分でどういうふうに問いを立ち上げていくとか、別のものの見方をいかに示していくのかとか、そういうことをやっていくことが大事だと思うのです。

ーー橋爪先生、今の橋本先生の自己紹介をどうお感じになりましたか。

哲学の話をされているときに、言ってみれば、人生があるんですよね。橋本先生のお話の中には。内面的な体験の中から、哲学というものの必然性が出てきたんだという話があって、月並みな言い方ですけど胸を打たれました。

もう一点、脱構築という話を出しておられました。これなんか、哲学の営みの本質的なところをやっぱり掴んでいるキーワードだと思います。脱構築は、もともと哲学者のハイデガーの「解体」という概念から出てきた言葉で、それをデリダという哲学者が脱構築という形で捉え直したものです。ハイデガーは、我々はいろいろな概念を積み立てて、そうこうしているうちに、もともとの経験を見失って、上に積んでいる上澄みだけで話を進めがちだよね、ということを言っていて、それを一旦取りさらって、一番底にある最初の経験に戻らなきゃいけないんだっていうことを言うんですよね。

橋本先生がおっしゃったような解体とか脱構築っていうのは、またちょっと違った意味もあると思うんですけど、例えばSDGsみたいな今積み上げられたものがあって、われわれが開発とか援助とかを語るときにどうしたってその積み上げの上でしか語れなくなっているものがある。そうだとしたら、それを突き崩して最初の経験に立ち戻るというのも、哲学の営みという感じがします。まさしく結びつく部分と切り分ける部分ということを、いろいろ感じられる自己紹介だと感じました。

役に立つとはどういうことか?教育は役に立つのか?

ーー橋本先生にとって、役に立つとはどういうことでしょうか?

役に立つとは、どういうことなのか。いろいろ考えることができると思います。おそらく一般的に「役に立つ」と言ったときには、短期的に目に見える形で何らかの結果が出る、変化が起きる、そういう文脈で肯定的な意味での変化が起きるという場面で「役に立つ」と言われていると思います。

では、自分は役に立っているのかと、役に立ち続けているのかと考えたときに、そうではないかもしれないし、いま役に立たなくても、もしかしたら30年後に何らかの芽が出るかもしれないと考えると、役に立つ/役に立たないという区分の仕方はものすごく乱暴というか、短絡的だと思っています。一見役に立たないことが巡り巡って誰かの背中を押すこともあるかもしれないと想像してみる。それは目に見えないし、誰も役に立った瞬間に立ち会っていないかもしれないけれども、その人にとってそれはものすごく役に立っていると思うのですよね。

私が教育に携わっているからというのもあるかもしれませんが、教育の結果ということを考えます。教育の結果はいつどういうかたちで出るかわからないのですよね。何か一言、教師が放った言葉が、1人の子どもの胸に深く突き刺さって、その子どもがその言葉を支えにして、20年30年生きていくかもしれない。死ぬときになって、自分はあの先生と出会ってよかったなって思う。これって、ものすごく教育が役に立っているとも言えるのではないか。

でも、その子どもがその言葉を大事にして何十年も生きてきたということについては、その言葉を放った教師本人はおそらく気づかないし、もしかしたら本人以外誰にもわからないかもしれない。その人がそのまま頭の中で、心の中で、自分の人生はあの先生との出会いによってここまで来られたのだと思いながら死んでいくということを誰も知らない。でも、そういう「役に立つ」もあると考えるなら、一般的な「役に立つ」という一言で満足してはいけないと思います。

人間は、偶然の出来事に後から意味を見出さざるを得ない生き物

ーー橋爪先生に質問させてください。なぜ山梨県立大学人間福祉学部の教員として、研究者として存在しているのかということを自身で問い続けていらっしゃるのですか。

そうですね。身も蓋もない答えもあって、一つはこの大学で職を得ているわけですから、この大学でどう役に立てるんだろうということは考えずにおれない。でも実際それこそ、この場があるのは偶然です。でも、学生からすれば、うちの大学に入ると哲学の授業は私から学ぶしかない。偶然とはいえ、そうである以上は、哲学をちょっとかじってよかったなぐらいのことは残したいという気持ちがひとつあります。

偶然というものが我々の身の回りには溢れていると思うんですけど、人間という生き物はそこに意味とかを見出さざるをえない生き物だと思うんですよね。アーレントによると、人間は物語を作る。物語というのは、今という時点から、過去と過去の関係、過去と過去の出来事の関係を結び付けるという順序で物事を考える。実際に起きた流れとしては完全に偶然かもしれないけれども、後から見ると何だか繋がりがあったような、必然だったような気がするとか。それはもしかしたら、因果関係を見いだしていくことを過剰に働かせているのかもしれなくて、人間という生き物が持っているバグみたいなものかもしれないんですけど、そういう結びつきみたいなものを、やっぱり見いだしていかないと納得のできない生きものなんだと思うんですよ。

だから、そういう意味で、この場も偶然なんだけれども、この場の偶然のその集まりがこの後に何か繋がるかもしれないし、何も繋がらないかもしれないけど、何かに繋がったら、あとから振り返って、あれがきっかけだったなっていうふうに思い出したりとかですね、そういうふうにしていく。人間という生物の生理みたいな部分で意味を探すというところもあるんだろうなと思います。

哲学に地域性はあるのか?

ーー斉藤さん、これまでの話を聞いて感想や質問がありますか?

お話を聞いていて、ちょっと難しいなという感じもしたんですけど、ただ、私が今やっていることに、すごくリンクするようなところがあります。私が今やっていることは、クライアント企業に対して、この企業のよさを発掘したり、発見したり、それを磨いたりしていくことです。なぜ、ブランディングしたいの?とか、なぜWEBサイトを作りたいの?というところから、私はクライアントと向き合うという仕事をしているので、一つの問いに対して、考えて、それをクリアにしていくというようなところが哲学と似ているのなかと思いました。

それを踏まえて、質問してみたいと思ったのが、哲学というものに対して、何か山梨らしい哲学とか、何か東京らしいみたいな、哲学から地域性というのがそもそも見いだせるのか、ちょっと聞いてみたいです。

哲学は普遍性に向かう

ーー橋爪先生、今の質問にコメントしていただけますか。

非常に鋭いご指摘で、哲学というものは、ある意味、普遍化するモーメントがすごく強い学問だと思うんですよ。だから、そういう意味で、核心を突かれてしまったし、すごく答えづらい問いだなと思うんですけど。今回の企画の出発点の一つでもありますしね。

哲学というものは普遍性を目指すところがあるので、山梨という地域でというなかで哲学を縁取るというか、枠付けるとは一体どういう意味があるんだろうかと、今、喋りながらずっと頭をぐるぐる回転させているんですけど、やっぱり難しいという回答にさしあたりなってしまう。

逆に言うと、普遍性があるからこそ、どういう場所でも、時代を超えて、哲学はある意味でどこでも使えるはずなんですよ。橋本先生はバングラデシュで経験をされるなかで、その具体的な経験のなかで、援助とは何かとか、国際関係とは何かというような問いに立ち戻らざるを得なかった。あるいは、それがその問いに付されることになった。そもそも経験として実際の場に行かず、そういうことを語れないなと思われているということに関わると思う。

逆に、哲学の側が普遍性を問いに付されるという意味もあるのかなと思うんです。

哲学の単位は地域か、個人か

ーー橋本先生からもコメントをいただけますか。

まとまっていないのですが、とりあえず何かを言うとすれば、哲学において山梨らしさを出すというふうに私は考えない。考えたくないというところがあるかもしれない。なぜ地域と結びづけなければならないのだろうかっていうところがあります。

特殊主義というか、たとえばアジア的な民主主義とか、フランスならではみたいな話にも似通ってるところがあると思います。それは本質主義の話にもなってくる。本質主義は危険なところがあって、フランスはこうだ、アジアとはこういうものだ、山梨はこうだと規定したうえで、それに合致した何かをする、それに合致しないものを排除することがある。山梨はこういうところだからこういう哲学を、ということになってしまうときに、その山梨らしさとは誰がどのような根拠で言っているのか、それに合わないものはどうなるのか、そこで言われている「山梨らしさ」は本当に山梨らしさなのだろうかと疑ってしまうところがあるわけです。だから、山梨らしい哲学のほうにすぐには行けないところがあって、いまは立ち止まって足踏みしているところがあります。

もうちょっと言うと、哲学というのは、究極的には考えるというところに行き着くと思うので、結局、個人ということになるのかなと思います。その一人ひとりによって異なる哲学が展開されていく。ただ、その個人ももちろん文化などに拘束されているわけなので、もしかしたら山梨で育ったことによって何らかの山梨的なるものの——よい意味でも悪い意味でも——負荷を背負ってしまっているということもあるかもしれませんが、でもまずはそういうものを帯びたその人、また別のところで育ったこの人というふうに、その哲学の単位は個人でしかないのではないかなと、いまのところは考えています。

哲学する身体がここ、山梨にいるローカリティ

ーー橋爪先生から補足のコメントがありますか

今、橋本先生がおっしゃったことがすごく重要で、哲学の普遍化志向には、ある種開放的なエフェクトがある。特殊性に囚われて、それを本質主義的に捉えてしまうといった危なっかしさを、むしろ開放的にする作用があるということを言ってくださって、それはそうだなって思ったんですね。

ただ、同時に今思っていたことは、橋本先生がおっしゃったように究極的には個で考えていくしかないという話にも通ずるのですが、確かに思考は普遍的なのですが思考できる存在は肉体を持って特定の時間と空間に生まれる存在なんですよね。だから、あるローカリティというか、その場所というものを持ってしか考えられないところがあると思うんですよ。例えば、山梨で哲学するということを具体的に考えたときに、まさにこの場が生まれていること自体がある種そうだと思う。私がここで勤めているのも偶然だし、橋本先生がここに勤めているのも偶然だと思う。哲学者といえど、別に霞を食って生きているわけじゃないので、具体的にどこかの地位に存在して、そこで研究室を持って、そこで本を買い込んで、それをいろいろ繰りながら考えるということでしか、我々は考えられない。そういう制約があるがゆえにだけど、こういう壇上で私と橋本先生が話すみたいな、そういう何か特殊な出来事が起きる。

この特殊な化学反応から何かが生まれてくるかもしれなくて、それは山梨の特色とはちょっと違うかもしれないのですが、でも山梨で起きた出来事として、何か意味を持ってくるということはあるかもしれない。

考え続けること、問いを立て続けること

ーー斉藤さん、橋爪先生と橋本先生のコメントについてどう感じましたか。

私自身も、豊かさって何だろう、その人にとっての豊かさって何だろうという軸でいろいろなクリエイティブを生み出しているのですが、それぞれの人が考える豊かさが全然違うという感覚があります。でも、この豊かさを考えることをやめたら終わりなんだろうなとも思っています。哲学というものも考えるのをやめたら、そこで終了なんじゃないかなと思いました。問いを立て続けることであったりだとか、答えがないかもしれないけれど、その事実に対して解釈したり、考え続けたりしていくことに意味があるんじゃないかなと思っています。

私も「DEPOT」という会社を通して山梨をよくしていくためにはどうしたらいいんだろう、この企業をもっと成長させていくにはどうしたらいいんだろうと、ずっと考えていて、その結果のアウトプットが、はたして正解だったんだろうかとか、もっといい方法があったんじゃないかと思うことがあります。お話を聞いていて、私自身がやっていること、考えることに対しても、このままでいいのかなと思えたりとか、考えるということ自体をやめちゃいけないんだなとすごく勉強になりました。

今しゃべっている自分を俯瞰で見つめている自分

ーー橋爪先生、最後にひとことお願いします。

斉藤さんから今伺った話は面白く感じました。それこそ、私が人間福祉学部というあるローカリティに所属している一つの帰結なんですが、いま私は幸福をテーマにする授業を一つ持っています。だけど幸福ってある種問えば問うほど何か遠ざかっていく、わからなくなるようなテーマの一つであって、結局すごく現代的な回答として人それぞれ違うよね、というようなところに行きつきがちです。だけど、そういう回答に行きついてしまうこと自体が、幸福とか――豊かさでもいいのですが――多分我々がそういう物事について考えるときに取っている枠組みの成せる技でもある。

哲学は、ある種、普遍を求めるものですが、豊かさと概念も、すごくうまい世界の切り分け方になっているときと、そうじゃないときというのはあると思います。たとえば、豊かさというものの誤認のゆえに、豊かだというものを思い追い求めているはずが、そうじゃないところに行き着いてしまうということもありうる。それをもうちょっと普遍的な形でやってくと哲学的な問いになってくるのかなと思いました。

きょう全体を通しての感想ですが、ずっと自戒はあります。今喋っている自分を、どこか俯瞰で見つめている自分があって、何を偉そうにしゃべっているんだっていう、そういう自分もやっぱりある。それこそ話す資格があるのかなと思いながらも立っているんですけど、でもなんかそれでも喋ってしまうというところがあって、なんだろう、橋本先生のように実際に動いた経験というのも私自身は欠けていますし、あるいは現にその斉藤さんがやっておられるような形で地域に関わるようなことを経験として持っているわけでもなく、だから、そういう立場であるにもかかわらず、さもわかったかのようなことを言ってしまう危うさが哲学にはある。これは自覚があるんです。今回は哲学とは何でしょうと話すことがあったんですけど、あと2回以降、いよいよ話すことがなくなるんじゃないかっていう怖さが今ちょっとみなぎっているところであります。

「地域貢献」という概念をわざわざ作ることが本当に必要なのか

ーー橋本先生、最後にひとことお願いします。

豊かさとは何かは大事な問いです。何をもって豊かさとするかは、実は開発学のなかでずっと問われ続けてきたもので、いろいろな答えが出され続けてきているものです。斉藤さんのお話を聞いて、同じような問いに、立場が違うけれども向き合っている人がこの世界にいるということがわかり、まずはすごく心強く感じました。

今日の話を通して考えていくと、橋爪先生がおっしゃられたこと、つまり人間は肉体があるから、どうしたってローカリティとか地域性を帯びてしまうということを考えると、その地域で何かをしないわけにはいかないということになる。絶対に、地域で何かをしてしまうわけです。それは避けられない。今日のこの営みもです。そうすると、あらゆる営みが、もしかしたら地域のために何かをしているというふうに言えるかもしれない。そう考えると、地域貢献という概念をわざわざ作ることが本当に必要なのか、その言葉で何を言おうとしているのかということを、もう一度立ち止まる必要があるのかもしれないなと思いました。

この場で何が生まれるかはわかりませんが、何らかの変化はもたらすのです。すごく小さくても。それも一つの地域との関わり方なのかなと思ったりもしました。

まとめ・謝辞

以上、2023年7月27日に山梨県立大学飯田キャンパス講堂で開催されたイベントの内容を一部、加筆・修正し、記録しました。このトークイベントは3回シリーズで、次は2023年10月、最後は2024年1月に開催する予定です。最終回は会場を大学から街の中に移して開催してみたいと考えています。

なお、このイベントは、山梨県立大学地域研究交流センターの地域貢献実践事業として開催されました。関係者の方々のご支援に感謝の意を表します。

また、素敵なロゴとポスターをつくってくれた山梨県立大学国際政策学部の折井穂乃花さんにも感謝の意を表します。