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鷗外さんの「小倉日記」①門司港に到着

明治32年6月16日。午後6時新橋を発す。根本通明氏餞するに藤四郎吉光の短刀を以ってす。
17日。大阪・道修町に投ず。夜菊池常三郎、緒方収二郎と灘萬に飲み、帰途中嶋朝日軒に遊ぶ。(中略)
灘萬の割烹は好し。朝日軒は西洋骨喜店に似たり。
18日大阪を発す。夜徳山に至り船に上る。
翌19日、午前3時、門司港に至る。


森鷗外の「小倉日記」の書き出しです。
「小倉日記」はあったとされながら長い間、行方不明でしたが、戦後になって疎開していた親族の荷物から偶然発見されました。
この日記を巡っての顛末は、松本清張さんの芥川賞受賞作「或る小倉日記伝」が有名です。
明治32年6月から35年3月までの2年10か月にわたる小倉在住の時の日記で、当時の鷗外さんのこと、北九州近辺のことがよくわかります。

この「小倉日記」にゆかりのある北九州とくに小倉の町を散歩してみたいと思います。

東京を出るとき、餞別として短刀を貰ったとあります。
短刀を餞(はなむけ)にしたのは、文科大学教授・根本通明氏、当時まだ結髪(ちょんまげ)をしていたそうです。
東海道線で大阪に着き、旧友と現在でも有名な名店灘萬(なだ万)で酒を酌み交わし、帰りに中嶋朝日軒で骨喜(コーヒー)を飲んだとあります。
当時、山陽鉄道は大阪から徳山までしか開通しておらず、徳山からは徳門連絡船で門司港に入っていました。
山陽鉄道が下関まで全面開通するのは明治34年5月28日のことです。
山陽連絡汽船の門司港到着は午前3時、桟橋通りにあった「古賀文」という旅館で休憩したと地元の新聞記事にあります。

川卯と三井物産門司支店
古賀文の広告
初代の門司駅があった辺り
現在の門司港桟橋通り このマンション辺りに「古賀文」や「川卯」があった
右となりは旧三井物産門司支店(旧JR九州本社)のビル

陸軍軍医監医学博士森林太郎(鷗外)氏は12師団軍医部長に赴任の途次昨午前三時四〇分の山陽連絡汽船に着門古賀文方に投宿。之より先仝師団軍医部員高橋一等軍医其の他数名出迎ひしとして来門し居りたるを以って仝八時二〇分の列車にて相ともに十二師団へ向け出発せり
(明治32年6月20日・門司新報)
いよいよ鷗外さんの小倉での単身生活が始まります。

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