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小倉城下町さんぽ・鷗外さんの「小倉日記」③


≪六月二十日。 小倉町大字鍛冶町八十七番地の僦屋を觀る。その主を宇佐美房輝といふ。≫

鷗外さんは師団に赴任あいさつに行った後、昔の長崎街道沿いで旧小倉停車場前や師団司令部にも近い室町(小倉北区)の達見旅館に投宿しました。
達見旅館には現在、呉服店「うめね」があり、小説「鶏」に、達見のおかみにお手伝いさんのあっせんを頼むところがあります。
兵僕とは幹部軍人に仕える当番兵のこと、鷗外さんは軍医とはいえ中将ですから当然お世話をする兵隊がいました。昼間は上官の世話をし夜は兵舎に帰っていきました。

うめね呉服店
旧長崎街道に面した「うめね」

達見旅館に宿泊していた鷗外さんは、鍛冶町にあった貸家(僦屋を紹介されます。貸家の大家さんは、宇佐美さんという旧小倉藩士でした。
息子さんは豊津中学にいて、学費が必要だったようです。
明治初め小倉には豊津中学の小倉分校がありましたが、1887年(明治20年)に廃止、それ以降、中学はありませんでした。
その後、小倉市民の20年余にわたる復活運動を経て、1908年(明治41年)、福岡県立小倉中学校として再興されます。なお、現在の小倉高校では、明治41年を開校の年としています。
宇佐美さんの息子は、その当時小倉に中学がなかったので、豊津中学に入っていたのです。
宇佐美さんの子孫が元北九州市長だった谷伍平さんのお母様と小倉高等女学校の同級生で友達でした。
谷市長によると
「鴎外の小倉寓居は、私の母の同級生の宇佐美マサさんの持ち家でした。 宇佐美さんと佐藤さんと母と、小倉女学校の三人の同級生が、私の家によく集まっていました。
宇佐美さんは上品な美しい方で、よく鳴外の話をされていました。
そうした縁で鷗外旧居の話を知り市に買いあげてもらいました。 「鷗外旧居」と名づけ、「北九州森鴎外記念会」を設立し、会長を作家の劉寒𠮷さんにお願いしてスタートしたのです。」。
そういったわけで、当時でも宇佐美さんの持ち家だった鍛冶町の鷗外旧居が保存出来たようです。

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