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「単細胞」は愚かさの代名詞? じつは驚くべきことをやっている!

知的と思えるような行動をとるのは人間だけではありません。たったひとつの細胞からなる粘菌だって、迷路の最短経路を探し出したりします。こういった行動も、粘菌が置かれた環境のなかで生き抜くための、いわば原始的な知性のようなものだと考えられます。
中垣俊之著、ヤマケイ文庫『考える粘菌 生物の知の根源を探る』では、単細胞の粘菌を通して、そのような生物の知性の出自に迫っていきます(※本記事は同書籍の第1章「単細胞の情報処理」からの抜粋です)。

「一寸の虫にも五分の魂」といいまして、虫けらごときにも生きとし生けるものとしての「生」があることを忘れてはならぬとされています。普段顧みぬほど小さい生きものにも、実際必死の生活があります。人類の歴史など足下にも及ばぬほど長い歴史を背負っています。何千万年、何億年という地質年代をずっと生き抜いてきているのですから、その営みはさぞ力強かろうと思われます。決して侮ることなどできないように思われます。果たしてその力強さとはいかばかりなのでしょうか?

最も単純な生物はたった一つの細胞からできています。体はどんなに小さくても、生きものである限り「生きるための必要にして十分な性能」は、そこにすべて存在して然るべきです。単細胞とて世知辛い生存競争を日々生き抜いているのでありましょうし、それなりの獰猛さやずる賢さを発揮して困難を凌しのいでいるやも知れません。

ところが、世の常識はこれに対して否定的です。「単細胞」と『広辞苑』で引けば、「考えの単純な人」という意味が明記されています。私自身これまでの人生で、馬鹿なことをしでかしたときに「単細胞!」などと罵ののしられたことは一度や二度ではありません。このような言葉の使われ方からわかるように、「考えの単純な」には「愚かな」という意味があります。

確かに、単細胞生物の行動には人間ほどの「複雑さ」は期待できないかもしれませんが、「単純であること」は、即「賢くない」ことを意味するのでしょうか? 一度、疑ってみる必要があるかもしれません。もしかしたら、単純ですっきりとした行動規範が、うまく成立していないとも限りません。私たち人間も、ややこしい状況では、シンプルに考えることで案外うまくいくことがままあります。

細胞と核とゲノム

生きものの体は、細胞という小さな単位からできています。ヒトの体も六〇兆個(六〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)ぐらいの細胞からできているといわれています(最近では三七兆個という見積もりも出てきました)。手足や脳もたくさんの細胞からできています。ヒトの体重が六〇キログラムだとすると、一キログラムあたり一兆(一、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)個の勘定になります。ヒトの体の大部分は水なので、ヒトの一キログラムも水一キログラムとだいたい同じ体積になります。ですから、その大きさは一〇〇〇ミリリットルになります。

一ミリリットルつまり一立方センチメートルの中には、何個の細胞があることになるのでしょうか? 一〇億(一、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)個です。アーモンド一粒ぐらいの中に、一〇億個も入るような細胞。とても小さい。ざっと計算すると、細胞一個の大きさは、一辺が一〇〇〇分の一センチメートル(一〇マイクロ[10の-6乗]メートル、一〇ミクロン)の立方体に相当します。

一個の細胞からなる生きものを単細胞生物といいます。粘菌は単細胞生物です。ちなみに、細菌も単細胞生物です。細胞の一つ一つは、ふつう肉眼では見えませんが、粘菌は巨大化して何センチメートルにもなることができます。細胞が巨大化するわけです。この巨大化したものは粘菌の「変形体」と呼ばれるものです。十分大きくなった変形体は、肉眼で見ることができます。運がよければ、森の中で大きい変形体を目にすることができます。肉眼サイズの変形体は、およそ一時間に一センチメートルぐらいの速さで移動します。

粘菌の変形体。これでもたった一つの細胞からなる単細胞生物

細胞の中には、核と呼ばれる球体の構造物があります。核の中には、DNAという分子が詰まっています。DNAは、デオキシリボ核酸という物質名の略称です。この分子が、生物の遺伝情報を記録しています。DNAは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンという四種類のユニットがひも状につながった細長い分子です。それぞれA、T、C、Gとアルファベットで表します。このユニットが三つ並ぶと、一つのアミノ酸と対応します。たとえば、GAGはグルタミン酸という具合です。アミノ酸には二〇種類ほどあります。DNAが遺伝情報として決めているのは、「どのアミノ酸がどのような順序でつながっているか」です。遺伝情報といっても、たったそれだけです。

アミノ酸がひも状につながった分子が、タンパク質です。タンパク質にはたくさんの種類があります。生物の体をつくったり、体内の化学反応(代謝反応)を促進したりします。たったこれだけの情報で、複雑で精巧な生物ができあがるというのですから、驚いてしまいます。

DNAが決めているのは、タンパク質だけ。しかしゲノム全体でみると、もう少し異なる面が浮かび上がってきます。あるタンパク質は、別の遺伝子からタンパク質をつくるかどうかを制御しています。遺伝子は、互いに制御しあっているため、全体としては複雑な相互作用が生じます。

そうなると、のっぺりとした遺伝情報が、「いつ、どこで、どのタンパク質をつくるか」という、時間や空間を含んだ挙動として現れてきます。DNAというひも状の分子に記録された一次元の遺伝情報が、時間軸と空間軸の中で立体的になります。そのとたんに、無機的な情報が、ずいぶん生き生きとしてきます。

ここにも、生きていることの鍵が潜んでいるのではないかと考えられます。遺伝情報そのものとは別次元のもう一つの鍵。これは、ゲノム情報が解き明かされてきた今日において、次なる問題として大きく立ちはだかっています。

この問題が難しいのは、目に見えないものを捉えることにあります。ゲノムというシステムが時空間の広がりの中でどのような挙動をとるかを明らかにするわけで、そのためには、ある種の運動方程式のようなものを解明することになります。

これは、直接目に見えないので、解析したり分析したりするだけでは到達できません。このことは、たとえば、リンゴが木から落ちるのは目に見えますが、ニュートンの運動方程式は目に見えないことと同様です。

細胞のモノとココロ?

細胞は、ミクロな世界にいます。核もDNAもタンパク質も、ミクロな世界にいます。同じミクロ世界ですが、それらの相対的な大きさは異なります。タンパク質は細胞より小さい。細胞の中にタンパク質があるのだから、それは当然です。

では、タンパク質は細胞よりどれほど小さいのでしょうか? ミクロな世界の大きさの違いを実感してみましょう。そのために、細胞の大きさを(一辺一〇マイクロメートルの立方体として)日常的な大きさに拡大してみることにします。

細胞が一辺一〇メートルの立方体としましょう。四〇〜五〇人収容の小ホールぐらいでしょうか。タンパク質の一分子は、五ナノ[10の-9乗]メートルぐらいで、〇・五センチメートルになります。グリーンピースか魚卵のイクラぐらいです。細胞内空間にはタンパク質分子が比較的密に詰まっています。

タンパク質分子は、ブラウン運動によって常に激しく小刻みに揺れ動いていて、細胞の端から端まで数十秒程度かけて移動します。小ホールの中に満たされたおびただしい数のグリーンピースがすべて振動しながら、数十秒で端から端まで移動する様子を思い浮かべてください。活発な活動の様子がイメージできると思います。

ちなみに、この換算では、ヒトの身長(一メートル半とすると)は一五〇〇キロメートルになります。一つの細胞の中にある核の中のDNA分子を一直線に伸ばしてすべてつなげると二メートルほどになるといわれてますから、二〇〇〇キロメートルですね。

二〇〇〇キロメートルにも及ぶひも、遺伝情報が記録されたひも、それが小ホールの中に整然と折り畳まれています。こんなに長いものから、必要なときに必要なところだけ、しかも同時にたくさんの場所で、きちんとほどいて記録を読み出すのです。こんな芸当ができるとは、巧みにもほどがあります。まさに、驚くべきことです。

生きたシステムは、さまざまな機能を発揮します。取り巻く環境をセンシングしたり、情報を処理したり、移動したり、エネルギーを代謝したり、生殖したり、恒常性を維持したり、体を形づくったり、感染症に対して防御したり、養分を循環させたり等々、本当にさまざまです。細胞は、生体システムに必要十分な構成からなっているのですから、生体システムに本質的な機能性のすべてが細胞の中に見いだせるはずです。そんな単細胞を、なぜ私たちは、「単細胞(=それほど賢くない)」と思っているのでしょうか。

一見すると、単細胞に現れる機能性の姿形は、高等動物のそれとは大きく異なります。アメーバの動きを見たとき、それが何を意味するのか、なかなかはっきりとはわかりません。そういうことが、一つの原因になっています。ですから、できるだけ大きく想像の翼を広げて、単細胞の行動を見直してみる必要があります。

単細胞生物のおもしろさは、なんといっても「単なる物質が集まって生きたシステムに化ける」ところにあります。単細胞の行動にもし賢さがあるとすれば、それをもたらす物質過程とはいったいどのようなものなのでしょうか? 自然にこのような疑問がわいてきます。この問題は、考えれば考えるほど捉えどころが判然とせず、きわめて悩ましいものです。そう遠くないところに、モノとココロの関係という問題も寄り添っています。これは、古代ギリシアの時代から(もしかしたらそれ以前から)続く大問題です。

単細胞の動物行動学

単細胞生物の知的側面については、じつのところ古くから繰り返し強調されてきました。たとえば一〇〇年ほど前、何人かの学者が、単細胞生物の知的側面について論じています。

フランスの心理学者であるアルフレッド・ビネーは、知能(intelligence)を推し量ることを企図してIQテストを考案したことで知られていますが、彼は『The Psychic Life of Micro-Organisms(微生物の精神生活)』という本を著しています。また、米国の生物学者ハーバート・スペンサー・ジェニングスは、ゾウリムシ(田んぼの水の中などを泳ぎ回る〇・一ミリメートルほどの単細胞生物)を顕微鏡で観察する中で、「仮にゾウリムシがイヌほどに大きかったら、イヌに感じるのと同じフィーリングをゾウリムシに対して持つだろう」と述べています。彼は、同じ刺激に対していつも同じように反応す
るのではなく、もう少し気ままなゾウリムシの様子を観察していました。そしてそれは十分感情移入できるほどだ、と。

彼は、「ある原生生物の心理学(The Psychology of a protozoan)」という題名の論文をはじめ、いくつもの関連する論文を心理学の学術専門誌『アメリカ心理学雑誌(The American Journal of Psychology)』に発表しています。「心理学」の雑誌ですよ! ちょっと驚きです。彼の主張もさることながら、それを受け入れて掲載した学術誌の方もまた天晴だと思います。

単細胞生物の行動について、これまでに次のようなことも知られています。一九二四年にマストらは、アメーバが刺激に対して適応することを報告しました。彼らは、アメーバをガラスの上に置いて、横から光を細く絞って照射しました。アメーバはこの光刺激に対し、いったん後退し、さまざまな方向に仮か 足そくを伸ばしたり縮めたりしながら、しばらくの間もじもじと試行的に動き回り、その後、最終的に光刺激から遠ざかりました。この刺激を三分間隔で繰り返すと、試行的もじもじ運動の時間が減っていき、六回目以降はまったくなくなりました。これは、「試行錯誤学習(trial-and-error learning)」の例です。

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試行錯誤学習はゾウリムシでも知られています。たとえば、一八〇八年のスミス、一九一一年のデイらの報告です。

細長いガラス管に一部水を満たし、そこでゾウリムシを泳がせました。ゾウリムシには前後があって、進む方向が決まっています。ゾウリムシは、通常では、水面に到達するといったん後退し、向きを変えて逃避します。ところが、彼らの実験では管が細いので、簡単には向きが変えられません。水面まで到達したゾウリムシは、そこでしばらくもぞもぞと動きますが、突然体を大きく折り曲げて転回します。実験では、もぞもぞ運動の時間が、経験の回数に従って減少しました。八個体で試したところ、その大部分が九回の経験の後には、水面に到達すると速やかに体を折り曲げて転回しました。

条件づけ学習も報告されています。これは、「パブロフの犬」として知られている学習です。連合学習といい、二つの異なる刺激を関連づける能力が求められます。犬は、ベルの音だけを聞いても、よだれを垂らしませんが、ベルの音とともに餌をもらっていると、ベルの音を聞いただけで、よだれを垂らすようになるというものです。ベルの音と餌とを関連づけたわけです。このような条件づけ学習を、古典的条件づけといいます。ちなみに、「古典的」でない条件づけは、オペラント条件づけであり、たとえば、マウスが、レバーを押すと餌が出てくることを学習することなどです。

ゾウリムシが泳いでいるところに白金線を入れても、ゾウリムシが白金線に集まってくることはありません。餌であるバクテリアを白金線にくっつけて与えると、ゾウリムシは集まってきます。このような給餌を繰り返すと、白金線だけでもゾウリムシが集まってきました。これは、一九五二年のゲルバーの報告です。

条件づけ学習は、かなり高度な知的活動です。これが本当に単細胞にもあるのか、今日でも議論が続いています。実験に不備はないのか、再現性はあるのか、解釈に思わぬ落とし穴はないのか、さまざまなことが議論されています。ゾウリムシは、温度刺激、光刺激、機械刺激に反応します。それらの刺激の間で連合が成立するとか、いやしないとか、ブラムステッド(一九三五、一九三九年)、アルベルデス(一九三七年)、グラボウスキー(一九三九年)、ゾエスト(一九三七年)、シュゴニナ(一九三七年)、ディブシュラグ(一九三八年)、チャコチン(一九三八年)、フレンチ(一九四〇年)、小野(一九五一年)らが、活発に議論しました。

単細胞の案外高い行動能力については、もうすでに一〇〇年前には知られていたのです。そして、その潜在能力がどれほどなのかは、まだまだはかり知れません。


単細胞の粘菌を通して、
生物の“知性”の根源に迫る!

内容紹介

生物が知的であるとは、どういうことでしょうか?

単細胞生物の粘菌は、脳も神経系もないにも関わらず、迷路の最短経路を探し出したり、人間社会の交通網にそっくりのネットワークを作り上げてしまいます。
「遭遇する状況がどんなにややこしくて困難であっても、未来に向かって生き抜いていけそうな行動がとれる」
知性をこんなふうに捉えてみると、単細胞の粘菌でさえも、その場のややこしさに応じた知的と思えるような行動をとるのです。

このようなすぐれた行動が、単細胞の粘菌からどのように生み出されるのか。私たち多細胞生物にもつながる「知的なるものの原型」を粘菌に探ります。

※本書は二〇一〇年五月に発刊されたPHP サイエンス・ワールド新書『粘菌 その驚くべき知性』を加筆修正のうえ、文庫化したものです。

著者紹介

中垣 俊之(なかがき・としゆき)
1963年愛知県生まれ。北海道大学電子科学研究所教授。
粘菌をはじめ、単細胞生物の知性を研究する。
北海道大学薬学研究科修士課程修了後、製薬企業勤務を経て、名古屋大学人間情報学研究科博士課程修了。
理化学研究所基礎科学特別研究員、北海道大学電子科学研究所准教授、公立はこだて未来大学システム情報科学部教授を経て2013年より現職。
2017〜2020年北海道大学電子科学研究所所長。
2008年、2010年にイグ・ノーベル賞を受賞。著書に『粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う』(文春新書)、『かしこい単細胞 粘菌 』( たくさんのふしぎ傑作集) など。


目次

まえがき

第1章 単細胞の情報処理

細胞と核とゲノム
細胞のモノとココロ?
単細胞の動物行動学
生きものの情報処理
意図的行動の特質
細胞は生命活動の原点
ヒトが単細胞になるとき

第2章 粘菌とはどんな生きもの?

ライフサイクル
収縮リズム
味覚
嗅覚・視覚・触覚ほか
発育をうながす環境
モデル生物としての粘菌

第3章 粘菌が迷路を解く

ちょっとした困惑──餌があっちとこっちに
最短経路の生理的意義
短い経路を選ぶ──迷路でも?
適応ネットワークモデル
付録──粘菌解法の数理モデル
行動の多様性
粘菌解法の生物らしさ
粘菌が解いたといってよいか?

第4章 危険度を最小にする粘菌の解法

危険度が非一様な空間での経路探索
危険度最小化経路
海水浴場のライフセーバーの問題とスネルの法則
粘菌の解法──適応ネットワークモデル再び
付録──モデルのもう少し具体的な説明
粘菌解法の応用──カーナビゲーションシステム
組み合わせ数の爆発の恐ろしさ
フィザルムソルバーの特質その1──大雑把さ
フィザルムソルバーの特質その2──渋滞への適応性
粘菌の適応ネットワーク形成のアルゴリズム

第5章 両立が難しい目的をバランスさせる粘菌の能力

シュタイナー経路
ネットワーキングのバラエティ
三つの指標
粘菌ネットの多目的最適性
粘菌の多目的最適化手法──適応モデル三たび
モデルのシミュレーション
関東圏の鉄道網を粘菌に設計させたら
地形のバリエーションを取り込む
粘菌とJRの不思議な類似性
シュタイナー問題への応用
適応ダイナミクスの共通性

第6章 時間記憶のからくり

周期的環境変動を予測することを示した実験
周期性の想起──実験その2
時間記憶能の生理的意義
時間記憶のからくり──共振
粘菌の多重周期性
一連振り子モデル
位相同期モデル
位相同期モデルのからくり
「エジプトはナイルの賜物である」

第7章 迷い、選択、個性

粘菌の逡巡行動を示す実験
ハムレットの逡巡
逡巡行動のからくり
先端部の雪だるま式発展
マッチ棒の延焼モデル
迷いとパチンコ

第8章 粘菌の知性、ヒトの知性

生物と物理
意識と無意識
高度な言語能力のなせる技
考えずに考える粘菌
知は環境の鏡
原生知能の行動力学方程式
細胞の不思議──微細藻類にみる旋回遊泳と多細胞性
多細胞生物へと受け継がれる単細胞の行動能力

あとがき
参考文献


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