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喜びの叫び声:聖書をめぐる旅 2/5

2/5(土)
 エルサレムに人々が集まり、ささげものが捧げられ、神殿の土台ができ、賛美が捧げられます。詩編146篇は、罪から人々を解放するために来られたイエス様を思いました。 

エズラ記3章

1第七の月になって、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった。
6第七の月の一日に、彼らは主に焼き尽くす献げ物をささげ始めた。しかし、主の神殿の基礎はまだ据えられていなかった。
10建築作業に取りかかった者たちが神殿の基礎を据えると、祭服を身に着け、ラッパを持った祭司と、シンバルを持ったアサフの子らであるレビ人が立って、イスラエルの王ダビデの定めに従って主を賛美した。
12昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。 13人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。


 バビロン捕囚から帰ってきた人々が、一人の人のようになりました。
これは、キリストを頭として、人々が体の部分を構成するという現代のイエス様の姿を予表しているようにも思います。
 そして、その人々が焼き尽くすささげものをささげ、神殿の基礎を据え、そして賛美をはじめたとあります。
どんな賛美から始まったのでしょうか?
ダビデの定めに従って、アサフの子らであるレビ人が立って賛美したとあります。
どんな曲が賛美されたのか、想像してみたいと思います。
例えば「我らの王はイエス」のように、この国の真の王を大胆に宣言するものだったでしょうか?
または、「聞けよ、愛と真理の」のように、神様の統治とこの世の救いを宣言するものだったでしょうか?
もしくは、「ヤハウェ・イエシュア」と神様の御名を叫び求めるものだったでしょうか。
 賛美の上に神様はおられ、戦いの前に賛美があり、主の都の再建の前に賛美があります。
多くの者が喜びの叫び声をあげたとあります。
苦難を突き抜けて歓喜に至る。
主は、復活の神様、どんな状態からも大逆転される方であることを思いました。


詩編146編

3君侯に依り頼んではならない。
人間には救う力はない。
4霊が人間を去れば
人間は自分の属する土に帰り
その日、彼の思いも滅びる。
とこしえにまことを守られる主は
7虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
8主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。
主は従う人を愛し
9主は寄留の民を守り
みなしごとやもめを励まされる。
しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。


 今日の聖書箇所は、イエス様のことをイメージできます。
今の時代に生きる私たちは、新約聖書からイエスキリストのことを知ることができますが、この時代、まだイエス様はこの世に誕生していません。
 エジプトからイスラエルを解放した神様が、一人一人の人間のことを
しかも、普通の人間の声を聞いて下さるのか?
 とんでもなく、離れたところにいる方ではないか?
 罪に陥ったのは自分の責任で、そのフォローなど神様はしてくれないのではないか?
 そんな疑念が人々にはあったかもしれません。
 しかし、イエスキリストは、誰にも受け入れやすい赤ん坊としてこの世に来られ、神の神殿にはロバの背中にのって入場され、最後には人々のすべての罪を背負って十字架について下さりました。
私の好きなイザヤ書61章にも、
「わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。」
とあります。イエス様は、人々を罪の支配から解放するためにこの世に来られ、その目線は偉い人や立派な人ではなく、一人のうずくまっている人に注がれています。感謝します!


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