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どうか、わたしの言葉を聞いてくれ:聖書をめぐる旅 3/28

3/28(月)
難解なものを理解するには、たとえが有効です。
ヨブ記は、芝居「イエスキリスト」を演じる、役者の気持ちで。
雅歌は、花婿キリストと、花嫁である教会の姿から、思いを巡らせてみました。 

ヨブ記21章 

1ヨブは答えた。
2どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。
聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。
13彼らは幸せに人生を送り
安らかに陰府に赴く。
14彼らは神に向かって言う。
「ほうっておいてください。
あなたに従う道など知りたくもない。
15なぜ、全能者に仕えなければならないのか。
神に祈って何になるのか。」
23ある人は、死に至るまで不自由なく
安泰、平穏の一生を送る。
24彼はまるまると太り
骨の髄まで潤っている。
25また、ある人は死に至るまで悩み嘆き
幸せを味わうこともない。

 ヨブとその友の関係は、
「イエスキリスト」の芝居で、
キリスト役の人と、民衆役の人の口論のようにも思えてきました。

キリスト役になった人は、
「主人公になったのはいいが、なんで
40に1つ足りない鞭を打たれ、
茨の冠をかぶせられ、
十字架を背負って、
十字架につかなければならないのだ!」
と訴えているようです。

一方、民衆役は
「そりゃしょうがないですよ。
あなたは選ばれたのですよ。主人公に。
だいたい、本当に神様を信じているんだったら、そんな不幸なことに
なるはずがないじゃないですか!
あなたが主人公になりたいという気持ちが強すぎたのがいけないんです。
神様があなたに、罰をあたえたのですよ。」

キリスト役の人は、
「私は、こんな事になるなんて知らなかったのです。
だって、芝居の主人公でしょ。
もっと奇跡を起こしたり、みんなから賞賛されたりするはずじゃなかったのですか?
他の芝居の主人公は、ヒロインと恋に落ちたり、敵に打ち勝ったり、冒険に出たりかっこいいじゃないですか。」

「なんでこの物語は、私だけが貧乏くじを引いたような、マネをさせられるのですか?
唾を吐くのをやめろ!
今、私はキリスト役ではなく私自身なのだ。」

「こんな役回りは御免だ」とヨブは訴えています。
しかも、神に従っていない者が家族もいて、裕福な生活をおくっているのに・・・。

アドバイスはいいから、とにかく
「オレの話を聞け!」
と、クレイジーケンバンドの歌の世界に入っていくわけであります。


雅歌4章

7恋人よ、あなたはなにもかも美しく
傷はひとつもない。
9わたしの妹、花嫁よ
あなたはわたしの心をときめかす。
あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も
それだけで、わたしの心をときめかす。
10わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく
ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。
あなたの香油は
どんな香り草よりもかぐわしい。


花婿イエス様が、花嫁である教会を思う気持ちだとおもって
雅歌を読み直すと、
キリストにふさわしいこととは何かと
あらためて、考えさせられます。

美しく、
傷もなく
花婿をときめかす
愛が快く、
かぐわしい香り

キリストは、花嫁に会うと心をときめかす。
そんな魅力が私たちキリストの教会にあるでしょうか?
それは、「会うとうれしい!」という感情は湧きますが、
ときめくとは、どんなことでしょうか。
それは、好きな人のことを考える時であったり、
ちょっとした何気ない会話であったり、
そうです、あまり理屈っぽいものではなく、もう恋をしているとときめいている可能性があります。

ただ、私に会ったイエス様はときめくのだろうか?
イエス様の言葉を、守っているのを知った時、ときめきに加え、愛や香りを感じるのかもしれません。
ときめく存在からはしばらく離れてしまった自覚がありますが、フレッシュな気持ちをいつも持ち続けたいですね。

16北風よ、目覚めよ。
南風よ、吹け。
わたしの園を吹き抜けて
香りを振りまいておくれ。
恋しい人がこの園をわがものとして
このみごとな実を食べてくださるように。

 花嫁である教会は、花婿キリストにふさわしい者として、甘美な果実のように成熟している姿が望まれます。その周りに、聖霊の風が吹き、主に望まれる香りが一面に広がっています。
やがて、キリストに出会う時、その時がいつきてもいいように、主からいただいた人生の実に栄養を注ぎたいです。


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