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原点に立ち返る:聖書をめぐる旅 11/27

11/27(土)
荒れ果てた神殿から見つかった律法の書を、ヨシヤ王は、すべての民を呼び出してその前で読み上げ、契約の言葉を実行すると宣言します。
詩編76編は、神様の怒りが記載されています。
 

列王記下23章
 
2王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。 3それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。


あまりにも忙しすぎると、
ふと、自分がどこに向かっているのかわからなくなることはありませんか?
そんな時に自分を取り戻す方法の一つは、
原点に立ち返ることかと思います。
ヨシヤ王が民族の原点に立ち返ることは、
発見された律法の書を読んで、神様と共に歩んだ民族のはじめに立ち返ることでした。
そうです、この民は、アブラハムによって旅立ち、エジプトから紅海を分けて逃れ、荒野を40年旅して、乳と蜜の流れる地に入った民です。どの時代にも神様と共に歩んだ稀有な民です。
異国の神々に導かれた訳ではありません。
ヨシヤ王は、民を集めて律法の書を読み上げ、この契約の言葉を実行することを誓います。
さらに、偶像を焼き払い、偶像にささげものをしていた聖なる高台の上で、偶像礼拝の祭司の骨を焼いて汚したとあります。

そして、過ぎ越しの祭を再開します。
これは、イスラエル民族がエジプトを脱出するときに、神様が行った10の最後の奇跡を祝う祭りです。
神様がエジプト中の初子を殺した時、子羊の血を門柱に塗ったイスラエルの家だけを過ぎ越したことにちなんでいます。
即ち、自分たちが神様に救われたことに立ち返ったのだと思います。

私の立ち返るべきところは、自分の救われた場所です。それは、私にとってはイエスキリストの十字架の元です。
尊い血が流され、尊い命が捨てられた場所です。

21王はすべての民に命じて言った。「この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。」


詩編76編

2神はユダに御自らを示され
イスラエルに御名の大いなることを示される。
3神の幕屋はサレムにあり
神の宮はシオンにある。
4そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き
盾と剣を、そして戦いを砕かれる。
8あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。
怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。
9あなたは天から裁きを告知し
地は畏れて鎮まる。
10神は裁きを行うために立ち上がり
地の貧しい人をすべて救われる。


神様が怒りを発せられる時とは、どんな時でしょうか?
人間が死んだ後に、白い御座の前に立つときがあると
聖書は語ります。
神様の前に出たとき、私たちはまっすぐ立っていることのできる存在でしょうか?
私は、とてもそんな存在ではありませんが、イエスキリストの内にあってようやく立つことができる存在です。
しかし、裁きの座に立つ前に、お前にはやるべきことがあるだろう!と
叱咤激励されているように思います。
神様が怒るのは、貧しい人がそのまま苦悩の中に落ち込んだままでいることです。
真の神を離れ、滅びに向かう人々がそのまま歩むことを神様は望まれません。


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