見出し画像

自分に死んで、キリストに生きる:聖書をめぐる旅 3/13

3/13(日)
ヨブ記とコヘレトの言葉に入りました。ある意味、悲劇と虚無感が重なり合ったような聖書箇所を、すすんでいます。 

ヨブ記6章 

8-9ああ神よ、もうたくさんです。
どうか死なせてください。
死ねば、この痛みから解放されます。
11なぜ、まだ生きる力が残っているのだろう。
息を引き取る瞬間まで、このまま我慢できようか。
14気落ちした友には、親切にすべきではないか。
それなのに、あなたは神を少しも恐れず、
私を責め立てるばかりだ。
29勝手に私に罪があると考えるのはやめてくれ。
私は潔白なのだ。
どうか正しい判断をしてほしい。
30私に善悪の区別ぐらいつけられないとでも言うのか。
もし落度があるなら、
気づかないはずがないではないか。

 ヨブの反論は、悲観的です。

 場面は異なりますが、介護をしていると、
生きたくない、死にたい・・・という人の告白を聞かされたことがあります。
死んだら楽になる。
生きたくないのに、何故命があるのか?と。
この言葉は、周囲を非常にいやな気持にさせます。
こちらは、生きるために必死で毎日を働いているのに、そしてその人が生きるためにいろいろな調整をしているのに・・・。
死にたい、と。
ふざけるな!と私は声を大にして叫びたい。
命を誰のものだと考えているのだ!
与えられている命を、粗末にするな。

 ヨブの言葉からは、自分の命を呪い、友から理解されない自分を嘆いている様子が伝わります。

 キリスト教の洗礼は、この生きたくないという方に、一つの希望を与えていると思います。生きたくない方は、自分の人生がもう嫌になったということです。キリスト教の洗礼とは、自分に死んで、キリストに生きるという意味があり、ある意味お葬式と誕生日が一緒にきたようなものです。この真理と希望をわかりやすく伝えたいです。


コヘレト1章

太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。 一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。 日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。

 コヘレトの言葉は、この世のむなしさを語っています。ヨブ記と並行して読むと、人生の荒れ野を2倍に、味わうことができそうです。荒れ野にあって、それを不可能の地と考えることもできるし、未開の地ゆえに可能性がのこる地と考えることもできます。コヘレトは、地球上の水の循環のことを語り、繰り返し繰り返しで、意味のないことととらえていますが、この水の循環こそが、地球上を一定の環境に保ち、地上と海の栄養素の循環のエネルギーでもあります。
 今日1日を神様と共に、一生懸命に生きて、あとはゆっくり寝る。人生を大きく変えることは大変ですが、1日を楽しくすごすことは、できそうです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?