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日常を引き剝がす方法について

旅行が好きだ。

いつもと違う場所に行き、いつもとちがう景色を見る。乗ったことのない路線に乗って、車内にある知らない駅名のある路線図を見上げて、その駅を日々生活の中で使っている人たちに思いを馳せる。川があれば名前が知りたくなるし、山があれば何メートルあるのか調べたくなる。お土産物屋や食事処でよく登場する食材は何か。その食材はなぜこの土地で食べられているのか。興味は尽きない。

「検索ワードを変えることができる手段が旅である」といった趣旨のことを書いていたのは東浩紀だ。私も、旅行に行くたびにそれを実感していた。普段の日常生活では興味を持たないような事柄、下手すれば自分の人生の中でかかわることができなかった物事、それらに出会うきっかけの一つが旅行である。新しく目に入ったものについて興味を持ち、検索エンジンに言葉を打ち込む。ググればなんでも情報が手に入るこの時代、大切なのは「何を」「どんな言葉で」検索するかだ。新しい言葉で検索を始めるとき、日常生活が引き剥がされ、世界がぐんと広がるのを感じる。正しく言えば世界はいつだって広いのだけど、日常生活を過ごしていると、つい目の前の景色だけが世界であるような気がしてしまうだ。

社会人になって2年くらいは、国内ばかりではあるけれど2~3か月に1回のペースで旅行をしていた。廃線秒読みの三江線に乗って、何年に一度かの大雪に見舞われたり、釧網本線の途中の原生花園駅でおりて、自転車で花を楽しもうとするも雨に降られてずぶぬれになったり、小海線の野辺山駅近くにあある国立天文台に行って、空がぞっとするくらい濃い青色であるのに驚いたりした。最後にちゃんとした旅行に行ったのは2019年の9月の宮古島だった。そのあと結婚することになって準備しているうちにコロナ騒ぎが始まり、それからずっと旅行はお預けである。

二度目の緊急事態宣言が、年明けすぐの7日に出された。それまで以上に、遠出をすること、人と会うことがしづらい状況になった。もちろん旅行に行くこともできない。そんな中、日常生活は自宅と会社および通勤経路、せいぜい最寄り駅の近くにあるスーパーがおさまる範囲に縮まってしまった。自宅は昨年の8月に引っ越したばかりで、それなりにきれいにしているし快適ではある。でも、何か退屈だ。私の職場は在宅勤務が可能であるため、最近は感染者が出た時の対策としてプロジェクトをチーム分けし、隔日で出社していた。在宅勤務は気持ちのうえでも体の都合的にも楽だが、1日中家の中にいることで、自分のまわりの世界がどんどんこじんまりしていくような感覚になっていた。日常生活には支障はないけど、じわじわとした苦痛がある。同じような状況になっている人もたくさんいると思う。

そんな状況をちいさく打破する出来事があった。それは、12月に出たばかりの、「0メートルの旅」(岡田悠)という本との出会いである。これは、旅行好きの会社員である著者が訪れた世界および日本の各地について書かれたエッセイである。面白いのは、章のタイトルにその場所と「自宅からの距離」が記載されており、最も遠い南極大陸(16,350,000メートル)から始まって、少しづつ近づいていくのだ。後半には「駅前の寿司屋」とか「郵便局」なんてのも登場し、最後は「自宅」(0メートル)で締めくくられている。著者はこれらの「旅」を通じて、旅をこのように再定義している。

「旅とは、そういう定まった日常を引き剥がして、どこか違う瞬間へと自分を連れていくこと。そしてより鮮明になった日常へと、また回帰していくことだ。」

日常を引き剥がして、世界の広さを思い切り感じること。そうすることで、毎日の日常がより鮮やかに感じることができる。じゃあ、旅行に行けないこのような状況では、どうしたらいいのだろうか。もう一つ引用する。

「たとえ地球の裏側に行こうと、通り過ぎるだけの景色もある。ふらりと出かけた散歩で、忘れられない景色もある。その違いは、何が起こるかよりも、どう受け入れるかにあった。どこに行くかよりも、どう接するかにあった。何を消費するかではなく、何を創るかにあった。」

私はこの文を、たとえ遠くに行けなかったとしても、ちょっとした工夫で日常生活を引き剝がすことができる、という意味として理解した。そして、小説や映画の力を借りることで、普段ふれない事柄にいつもより少しだけ深くふれることができるんじゃない?と思った。そしていくつか試してみた。

たとえば、家にあった小説「キャベツ炒めに捧ぐ」(井上荒野)の中で、主人公が過去を思い出しながら揚げる「ひろうす」(=がんもどき)を実際に作ってみた。豆腐を水切りしてすりおろした長芋、刻んだにんじん・ぎんなん・きくらげと和え、油で揚げる。小説のようにはうまくいかず、がんもどきというよりは豆腐のから揚げみたいになってしまったが、これはこれで美味しかった。また、AmazonPrimeで無料配信されていた映画「東京家族」(山田洋次)を観たら、その元となった「東京物語」を撮った監督小津安二郎の作品に興味がとんで、そちらも観てみたりした。なぜか「東京物語」ではなく「お茶漬けの味」を観たのだが、戦後すぐの路面電車だらけの東京の風景や、ヒロインを演じた木暮実千代の小悪魔的なキュートさにうっとりした。

実際に手を動かしたり、関連するものを調べることは、ただ作品を消費するよりもずっとずっと楽しかった。

緊急事態宣言は来月7日までだが、思い切り旅行できる日はもっともっと先だろう。これ以上自分の世界が狭くなっていかないように、日常を引き剝がせる物事を見つけていきたい。

なお、「0メートルの旅」は、旅先で出会ったあれこれが当時の著者の思いとない交ぜになって語られており、とにかく面白いのでいろんな人に読んでほしい。そして読んだら好きなフレーズをこっそり教えてもらえたらうれしいなと思っている。ちなみに私は「南極大陸」の章の、氷山が崩れる音を「地球の寝息」に例える一連のフレーズが一番好きだ。出たばかりなので単行本のみであり、文庫本に比べるとすこしお値段は張るが、後悔しないと思うので、興味をもっていただいた方はぜひ。

0メートルの旅 日常を引き剥がす16の物語 岡田悠 https://www.amazon.co.jp/dp/4478110891/ref=cm_sw_r_tw_dp_Pja.FbF25WXDZ 

他に具体的な作品名を出したもののリンクはこちら。

キャベツ炒めに捧ぐ (ハルキ文庫 い 19-1) 井上 荒野 https://www.amazon.co.jp/dp/4758438412/ref=cm_sw_r_tw_dp_EOa.FbYHJN0B5

東京家族 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00G9SYS8W/ref=atv_dp_share_r_tw_5568448a39b54

お茶漬けの味 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08JHMML3B/ref=atv_dp_share_r_tw_e598da030e0b4









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