見出し画像

放送法と公平原則

1. 何が問題なのか

一般に、表現の自由(憲法21条1項)は憲法が保障する他の人権に比べても特に重要であると説かれます。これは、①個人の自己実現にとって不可欠であるだけでなく、②国民の自己統治という価値があるからです。

人は、さまざまな情報に接し、また、自ら発信することによって、人格が形成されていきます。命の危険にさらされても、「それでも地球はまわる」と言いたくなるのが人間の性(サガ)というものです。

また、説得と討論の過程の保障は民主主義の基盤を形成します。もし、経済的自由を制限する法律に行き過ぎがあったとしても、表現の自由が保障されている限り、「あの法律はおかしい」という意見が多数を占めれば、これを是正することができます。これに対して、表現の自由を制限する法律に行き過ぎがあると、民主主義のプロセスが毀損してしまっているので、是正が不可能ないしは著しく困難になってしまいます。

そこで、表現の自由については、検閲の禁止(21条2項)が明文で定められているだけではなく、時・場所・方法について制限することはできるけれども、内容については原則として規制をしてはいけないであるとか、そもそも表現の自由を規制する立法には違憲性の推定がはたらくのだ、と説明されることもあります。

ところが、放送法は、放送事業者は、免許制がとられているだけでなく、政治的公平性や論点の多角的解明などの番組編集準則の遵守が定められています(放送法4条1項)。

もしあなたが、SNSで自分の見解を発表しようとしたときに、国に対して免許の交付を受けなければならないとか、表現内容について政治的に公平でなければならないというような法律が作られたとすれば、「表現の自由を侵害するものだ」と感じるでしょう。

新聞について、同様の法律を作れば、憲法21条違反と思われます。

放送についてはほかのメディアと異なった取扱いをすることができるのか、できるのだとするとどういう理由にもとづくのでしょうか。

難問の一つといっていいでしょう。さまざまな学説が展開されているところ、いささか単純化しすぎるきらいはあると自覚はしていますが、ご紹介していきます。

2. 「放送」とほかのメディアとの違い(2010〔平成22〕年改正前)

現在では、インターネットでラジオやテレビの番組も配信されていますが、かつては、まったく別のものとされていました。

2010年に現在の放送法に改正される前、旧放送法第2条1項に、放送とは「公衆によって直接受信されることを目的とする無線通信の送信」とされていました。

有線の通信とは区別されていたということです。いまでこそガラケーからスマホの時代になり、「有線」の通信といってもピンとこない世代の人もいるかもしれませんが、インターネット導入時には、ケーブルで電話回線につないだものです(ダイヤル・アップ方式)。

かつては、①電波の稀少性、②社会的影響力という点で新聞や雑誌(プリント・メディア)と放送は違うのだ、だから異なった制度であっても憲法違反ではないのだ、と説明されていました。

放送は電波を使うもので、放送に適した周波数帯というのは限られていて、混信を防ぐ必要があること、また、放送は、視覚・聴覚を通じて受け手に特殊で大きな社会的影響力を与えるものだ、というのです。

3. 現在の放送法の下でどう考えるか

2010年の放送法の改正以前にも、すでに周波数帯の利用が高度化し、CATVや衛星放送などのメディアが出現して、電波の稀少性であるとか、社会的影響力という理由は説得力を失っていました。★1 放送法改正により、放送が「無線通信」から「電気通信」に拡張されたことから、問題が複雑化したといってもいいでしょう。

放送と通信の垣根がなくなりました。こうなると、通信側を原則と見るか、放送側を原則と見るかによって、制度の組み立て方が変わってきます。

もし、もはや電波の稀少性など理由にならない、インターネットなどの通信と放送は同じものである、と考えると、「放送」は普通の表現の自由と同じルールが適用されるべきで、放送法による特別なルールは憲法違反と考えるのが自然に思えます。

逆に、放送法のルールが合憲であることを前提にしたうえで、放送と通信の垣根はないのだとすると、これまで特別なルールはなかったイン―ネットなどの通信の世界に免許制や政治的公平性や論点の多角的解明などの番組編集準則を導入しても憲法違反ではない、ということになりかねません。

そこで近年では、部分規制論という考え方で説明する学説も有力です。

「憲法上の権利の中には、個人の利益よりはむしろ社会全体の利益に着目して政策的に保障されているものもある。たとえば、表現の自由の中でもマスメディアを権利主体とするプレスの自由は、社会における言論・情報の多様性を確保し、民主的政治過程の維持に奉仕するものとして保障されている」★2 としたうえで、「放送のみに一定の規制を課することで、新聞にとりあげられない視点が放送に反映されることが期待できるし、その一方、放送に対する過剰な規制に対する歯止めを、典型的な自由なメディアとしての新聞の活動に期待することができる」★3 というのです。

これは、「メディア市場全体の中で、公的規制を課されているメディアとそうでないメディアを併置することによって、すべてのメディアが規制の下に置かれている場合や、規制から全く自由であるという極端な場合よりも良い状態を実現することができるという考え方」といえます。★4

人権論の体系にも関わることですが、伝統的に表現の自由は「国家からの自由」として構成されてきました。しかしこの考え方は、放送については「国家による自由」的な構成になっています。そうだとすると、(一定の条件付ですが)番組編集準則は法的拘束力がある法規範性があるという結論に親和性がありそうです。★5

4. 囚われの聴取(captive audience)

1950年に制定された放送法は、「徹底した権力による放送統制とそれがもたらした大きな悲劇に鑑みて」★6 のものであることから、「国家による自由」的な構成には躊躇を感じます。

放送についても、「国家からの自由」のモデルを維持しつつ、通信に対して過剰な規制とならないような説明ができないか。このことは、以前、憲法改正国民投票法に関して、スポットCM規制を検討するに際しても悩んだ問題です。以前、日本平和学会の2022年度春季研究大会で「憲法改正国民投票におけるルールの公正確保の必要性―スポットCM問題を中心に―」と題して報告する機会がありました。

名誉権の侵害があった場合、民法723条で「名誉を回復するのに適当な処分」を裁判所が命じることができるとされているにとどまるのに対して、放送法9条には、訂正放送についての規定があります。この違いは何なのか、ということを手がかりにしたものです。★7

訂正請求をプレス(紙媒体)に訂正記事を掲載する場合と、電波で訂正放送を行う場合の違いの1つは、放送時間の有限性という視点です。

プレスの場合、訂正記事の要求に対して、一定の紙面を確保しようとすれば、ページ数を増やすことにより対応が可能です。これに対して、「放送」における放送時間には限りがあり、また、ニュース番組であれば、場合によっては数分の時間内に納めなければならないという事情があります。「番組編集上時間枠を確保することが困難」という抗弁は一定の説得力をもってしまうので、これを封じるために、プレスの場合とは別に法律で定める必要があると考えられます。

もう1つは、情報の受け手の側に対する影響力、具体的にはその個人が主体的に情報の選別が可能かどうか、という視点です。

平たく言えば、情報の受け手が「読者」である場合、新聞や雑誌の記事などは、読みたいものだけ読んで、あとはページをめくってしまえばよいので、「必要がない」「読みたくない」情報は自ら選別することが可能です。これに対して、情報の受け手が「視聴者」である場合、スイッチを消すか、その場を立ち去らない限り、情報の選別は困難です。

視聴している限り、権利侵害にあたる情報であれ、誤情報であれ、情報の受け手の認識に作用してしまいます。最高裁も、テレビによる報道の名誉毀損の成否が問題になった事例において、「テレビジョン放送をされる報道番組においては、新聞記事等の場合とは異なり、視聴者は、音声及び映像により次々と提供される情報を瞬時に理解することを余儀なくされる」とその特徴を指摘しています(最判平15.10.16民集57巻9号1075頁)。

いわゆる「囚われの聴衆(captive audience)」と評価できる状況に置かれているといえます。「囚われの聴衆(captive audience)」とは、アメリカ連邦最高裁判例で、連邦通信委員会(FCC)の定めた、「公平原則」(fairness doctrine。ただし、1987年に廃止★8)などをめぐって、いわば放送規制を正当化する際の理由として用いられてきた法理です。権利侵害や誤情報の受け手に対する影響がプレスに比べて相対的に大きくなることから、訂正ルールを明確に定める必要性が高くなるといえるのです。

このことから、プレスの場合と「放送」の場合とで、異なったルールを設けることを基礎づけることができると考えられます。

このことは、通信の世界に過剰な「放送規制」を持ち込まず、統一的な説明が可能になると思われます。つまり、インターネットなどについては、原則的に「囚われない」で視聴することが可能でしょうから、放送とは異なるものだという原則を維持しながら、放送と通信の同時配信の場合には、放送のルールが妥当する、と考えるわけです。

5. 番組編集準則をどう考えるか

放送についても「国家からの自由」としての表現の自由が保障されているのだ、と考えた場合、プレスの自由と異なる規制が可能であるとしても、それは必要最小限のものでなければならないはずです。

放送法3条には、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と定めています。番組編集準則は、この規定を受けてのものですから、番組編集準則は放送事業者が自律的に実現を目指すべきもの(倫理規範)であって法的拘束力がないものだとするのが、通説的な理解と言えます。★9

もし、法的拘束力のある法規範であるとすると、放送法は表現内容に対して国家が介入することを認めた法律ということになり、憲法21条に違反すると考えられます。

このように、放送法4条はあくまでも倫理規範であるとする通説的な解釈を前提とすれば、これに抵触することがあったとしても、放送事業者の自律的な解決に委ね、公権力による処分の対象となりえないものだというのが論理的な帰結となります。★10

6. 政治的公平をめぐって

戦前、日本は放送を政治の道具に利用し、大本営発表で道を間違えました。そうした経験を踏まえて制定された放送法に、政治が介入することはあってはならないはずです。

従来から、政府は「放送法4条で規定された政治的公平性が確保されているかを判断する際には、1つの番組ではなく放送事業者の番組全体を見て判断する」としていました。これを「1つの番組のみでも認められない場合がある」としたことに、政治的な介入がなかったか、このことによって放送事業者に萎縮的効果を働かせることになったのではないか、ということが検証されるべきでしょう。

また、放送法4条は放送事業者倫理規定と解さなければ違憲と考えられることから、政治的な公平性を欠く放送を繰り返した場合、電波法に基づき「電波の停止」を命じる可能性を示唆した答弁については、撤回されることが必要と考えます。

脚注

★1 長谷部恭男『憲法 第8版』226頁(新世社・2022年)
★2 長谷部・前掲99頁
★3 長谷部・前掲226頁
★4 齊藤愛「国民の知る権利とマス・メディア 放送の自由を中心に」坂口正二郎・毛利透・愛嬌浩二編『なぜ表現の自由か』129頁(法律文化社・2017年)。また、いわゆる表現の自由が「構成的」部分(「切り札」といわれる部分)であるのに対して、放送の自由は「道具的」部分であり、この観点から制約の可否を論じうるものとしています。同126頁。
★5 西戸彰一郎「放送法の思考形式」鈴木秀美責任編集『メディア法研究』105頁(信山社・2018年)
★6 佐藤幸治『日本国憲法論[第2版]』316頁(成文堂・2020年)
★7 ただし、最高裁は、放送法に基づく訂正放送は、「放送事業者に対し、自律的に訂正放送を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めたものであって、被害者に対して訂正放送等を求める私法上の請求権を付与する趣旨の規定ではない」としています(最判平16.11.25)。
★8 奥平康弘『「表現の自由」を求めて アメリカにおける権利獲得の軌跡』340頁(岩波書店・1999年) 右崎正博「メディアへの市民のアクセス」『表現の自由の現代的展開』126頁(日本評論社・2022年)
★9 鈴木秀美「放送法における表現の自由と知る権利」ドイツ憲法判例研究会編『憲法の規範力とメディア法』267頁(信山社・2015年)など
★10 佐藤・前掲

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?