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故郷に対する想いと地方のこれからについて

 少子高齢化と一極集中が極端な速さで進行する日本において、いわゆる地方に生まれ、地方に暮らす人間はどのくらいいるのだろうか。

 私は、山口県に生まれた。故郷への愛着は異常なほどのものであると自覚している。中学生の頃には既に山口県が大好きで、県や各市町が出すパンフレット類をほとんど全て収集していた(今でも全てファイリングして所持している)し、当時行われていた観光案内人の検定にも合格した。山口県の歴史も景観も素晴らしいものだと思っていたし、今でも誇りに思っている。

 生物には帰巣本能があるし、自分が育ってきた場所への愛着は少なからずみんなが持つものだろう。そして、故郷が褒められると嬉しくなる心理は、自己肯定感とほとんど同様のものであると認識している。私のアイデンティティや、もっと言えば私という人間の根幹部分にまで、「山口県」が浸透している。それは私だけでなく、全ての人間に言えることではないだろうか。郷土愛のみの話ではなく、言語、習慣、思考、何においても、山口県に生まれ育っていなければこうはならなかっただろうものが沢山ある。

 故郷は、それが人口の多い地域であるかないかに関わらず、人間を形成する1つの要因である。我々を構成するからだの1部分と言っても全く過言ではない。

 高校生になり、いわゆる偏差値の高い大学が地元にないことを知り、愕然とした。高いレベルの教育を受けるためには、県外に出なければならない。それを認識したとき、これは暴力だと思った。例えば東京を故郷とする人々は、高いレベルの教育を得るために故郷と引き離される経験をする必要がない。彼らは、ごく当たり前のように、地元で教育を受けられるという恩恵を享受する。対する私は、特に愛着もない東京で1人暮らしを強いられる。生まれ育った場所とは似ても似つかない、常に濁った空気と人ごみの中に収監される。故郷からしても、これはいいことではないはずだ。小さなころから育ててきた優秀な若者を都市部に吸い取られる。(しかも、ほとんどの場合は返却されない。)

 これは、あまりにも理不尽な話ではないだろうか。先ほど、故郷が私に浸透していると書いた。これは、故郷が人間のからだの1部であることと同義だ。生まれ育つ場所を、ほとんどの人間は選べない。それは才能と同じである。研究者も野球選手もアイドルも、もちろんそれぞれがそれぞれの努力をしているとはいっても、生まれ持った才能の補助や健康な身体の恩恵を間違いなく受けている。家庭に関しても同様だ。職業に貴賤はないが、あなたの両親の年収がもし現実の2倍であれば、もしくは現実の1/2倍であれば、違う人生だったかもしれないという人は少なくはないのではないだろうか。故郷も選べない。理不尽な話である。何が幸せなのかは人によるが、多くが憧れる資本主義社会におけるいわゆるエリートの暮らしは、教育環境も含め、東京や大阪などの大都市に生まれてしまえば、それ以外の場所に生まれた人間よりも有利だ。東京に生まれることも才能と言っている人を見たことがあるが、それも事実なのだろう。地方に生まれたことがハンデだと考え、故郷を憎み、離れていった人もいる。

 だが、これは仕方のない話なのだろうか。生まれ持った才能と考えるならば、仕方のない話のように思える。才能を持って生まれた人を羨むのは単なる嫉妬であり、羨んだところでどうすることもできない。しかし、地域格差に関しては、先に挙げた例だと所得格差と性質が似たものであり、人間の努力や怠惰によってその格差を拡大することも縮小することも本来可能なものである。例えば、私は大学進学のタイミングで故郷を離れざるを得なかったが、自分が通っていた大学と同レベルの大学が故郷にあったならば、間違いなくそちらを選んだ。この背景には、やはり一極集中の問題が隠れている。一極集中を防ぐために、国や地方自治体は十分な努力をしただろうか。

 今やそういった教育格差や地方と都会の賃金格差は当たり前のものとして受け止められているが、それは感覚の麻痺だ。地方に生まれてきたというだけで、自分が好きな場所で教育を受け、労働する権利が侵害されているというのは、特に誇張でも何でもなく、不当な暴力だ。

 都会に生まれていれば、このような思いを抱えることもなかったのかもしれない。私はそれでも地元を愛している。山や海に囲まれ、満員電車に乗ることもなくのびのびと過ごした日々は宝物だ。後の世代を生きる子どもたちは、今よりももっと厳しい社会を生きることになる。格差は拡大するばかりで、地方に生まれたことで受けるハンデも増幅する。しかし、そうであっても、何度生まれ変わったとしても、やはり私は山口県に生まれたいと思うだろう。

 国のせいだということは簡単だが、多数を採用し少数を切り捨てる民主主義と、効率化を重視した資本主義が発達した社会で、これから先地方に有利になるような政策に重きが置かれる可能性は低い。ただでさえ財政的に考えても地方はお荷物だ。地方を改善したいと思うならば、地方の人々が立ち上がらなければならない。では、地方は何をすべきなのか。

 山口県も含め、現在の日本の地方自治体は、観光客や移住者を集めることに躍起になっている。しかし、これはほとんど最後の手段ということを忘れてはいけない。

 私は大学生時代に観光系のウェブ事業のインターンシップを受けていたことがあるが、観光地や観光地の人々への敬意を一切払わず、収益ばかりを追い求める姿勢には辟易した。まあ、これに関しては仕方がないだろう。資本主義とはそういうものだ。その人たちにも暮らしがあるし、人情に重きを置く会社には私も勤めたくない。

 観光業は仲介業者やウェブ業者の道具になっている。確かに地方においても、観光地の整備やインバウンドなど一定の雇用を生むが、それも含めて、外の人間のための娯楽システムの1部分に過ぎない。

 そして、最終的には持続可能な地域社会を目指さなければならないという点においても、観光と移住の政策は不適切だ。日本全体の人口が減少している。当然客は減る。線形的どころではない人口の減少を目の前にして、その政策を続けて、果たしてどれだけ持つか。両政策は元々カンフル剤のような役割を果たしている。カンフル剤にばかり手を付けているとそのうち詰む。そもそも、外部の人間に頼るカンフル剤の実態は、新型コロナウイルスの流行で露見したのではないか。

 地方は、優秀な若者を都市部に奪われる。それは手足をちぎられるのと同じようなことではあるが、それでも自立しなければ生きていけない。

 地方は、自立しなければならない。 

 本当に必要なのは、観光や移住など外部の人を呼び込み手厚く歓迎する政策よりも(もちろんそれが完全に不要であるとは言っていない)、今居住している人間を大切にする政策だ。それができれば自然と人間は増える。外に出て行かれないし、出生率も上がるだろう。足による投票が実際に起こるとすれば、1人1人に金をかける現行の移住政策よりもよっぽど多くの移住者を呼び込むだろう。雇用や教育を含めた生活インフラの整備、暮らしやすい社会の創出が必要不可欠だ。これには多くの予算を要するし、現実的ではないだろうが、観光や移住に割いているカンフル剤的な支出を削って少しずつでも進めていくべきだと考える。

 鉄は放っておけば錆びるばかりだ。前半で強調した通り、私は故郷を愛しているし、後の世代につなげたいと思っている。地方に生まれたことの理不尽さを痛感し、故郷を憎んでいる者は多いだろうが、ここまで目を通してくださったあなたはおそらく私と同じような人ばかりだろう。今の状況を嘆くのは簡単だが、少し動いてみないだろうか。大きなことを成せる人間は限られているが、私のような凡人でも、その方向に歩いていけば、あるいは誰かの力を借りればいつか目的にたどり着くことがあるかもしれないと思い、仕方なく東京まで出てきて経済学を学習している。稚拙な文章ではあるが、この文章を読んでくださった方の中に、もし同じ方向へ歩こうとしてくれる方がいらっしゃれば、とても嬉しい。

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