読書感想文 「雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら」東畑 開人 「野火」大岡 昇平 ケアの倫理と豊かな社会について
「雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら」東畑 開人著と「野火」大岡 昇平 著の二つを続けて読むことになりました。読んだ感想です。
二つの本は一つは現代の日本の状況で誰かのケアをしなければならなくなった人に向けての話と、もう一つは第二次大戦中の日本兵がフィリピンでジャングルの中をさまよう話です。まるで違う世界の話です。一方は私の知っている世界の話であり、もう一方は私の知らない世界の話です。
その隔たりに戸惑ってしまいます。現代と過去。平和と戦争。いくらでも言葉を並べることができるでしょう。
ケアの現場はどこか戦争じみていて平時ではありません。ケアを必要としている人は傷ついていて、誰かを必要としています。時にはもう死がまじかな人もいます。元気な時が晴れの日だとすれば、ケアをされるとは雨の日の心理学なのです。
一方、野火の世界は本当の戦争の状況です。フィリピンで食料もなく部隊は崩壊し戦うどころではありません。怪我を負っても誰からも顧みられず、傷には蛆がわいています。生命の満ち溢れているはずの森の中は死で満ちています。
この二つの本の間の違いは何なのでしょうか。戦争反対とか戦争は仕方がないとかそういうことではない気がするのです。どちらかが正しいとかそういうことでもありません。野火の世界にはケアがないのです。傷を負っても誰も見てくれません。
キャロル・ギリガンはケアの倫理を書きました。従来の道徳観が「正義」や「権利」といった普遍的な原則を重視するのに対しケアをすることから発生する倫理を語りました。ケアする人が女性が多かったことからジェンダーの文脈で語られることもあります。ケアとは倫理の基底をなすものとしてとらえられています。ケアとは単なるシャドウワークではなく、倫理の基底をなすほどに重要なワークなのです。
私たちは生まれたばかりの時には何もできません。誰かにケアされなければ育つことはできません。人間とは未熟な状態で生まれて、弱い生き物として育てられます。人間とは初めからケアから無縁の者などいないのです。だからケアを根底に置いたとしても不思議ではありません。自分が赤ん坊だったことを忘れているだけなのです。
誰でも年を取り老いていきます。自分のことさえままならくなることもあるでしょう。誰かにケアされるそんな日が来ます。自己責任論のおかしさは、どこにもケアされる人も、ケアする人もいないかのようだからです。
私はケアとはこれからの時代もっと大きくなっていくと考えています。豊かな社会とはケアする人間が増えることを指します。野火のようにほうっておかれるのではなく、ケアされる者へと変わるのが豊かさです。
ケアはマンパワーを必要とします。一人でケアを抱え込むとケアする人がまいってしまいます。なるべくチームで事に当たるのがいいです。専門家や行政の人をなるべく頼ることが重要です。だからこそ豊かさは重要です。豊かでない社会で人をねん出するのは難しいですから。
二冊の本はまるで違う本です。でも改めて考えをまとめることができたと思います。