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複数の変換空間を持つこと 廻向と労働と変換と商品 お金と善悪

マルクスは資本論の最初のほうで商品の分析から始めました。商品とは市場でやり取りされる物です。富とは巨大な商品の集合体のことを指します。なぜ無味乾燥な商品の分析から始めたのでしょうか。それは労働もまた商品の一つであり、労働者階級とは労働しか売るものがない人々だからです。別の商品を持っていれば労働を売ることなく、商品を売ることによって利益を得ることができます。

事業を起こして商品を作ることができれば、そこから利益を得ることができます。もちろん言うは易しです。事業が必ずうまくいくわけでもありません。しかし労働以外で利益を得る方法はあります。事業とは商品を作り、売り、原材料をまた仕入れて、作り、売るを繰り返す往復運動によって富を得ます。常に交換が発生する現場にいることによって利益を得ます。節約とは市場にお金を放出しない行動です。お金の循環によって利益を得るとは、発想が違います。

これを別の見方からすれば商品が別の商品に変換されているように見えます。貨幣を媒介にして変換されています。例えばトウモロコシを作っている農家を考えます。トウモロコシは食べられますが、スマホのように情報をやり取りすることはできません。逆にスマホは食べられません。スマホを見続けていても腹はすきます。そこでスマホとトウモロコシと交換するわけです。すると見方によってはトウモロコシがスマホに変換されるわけです。

変換されると物が、別の物に変わります。石がパンに変わることもあり得ます。

仏教用語で廻向という言葉があります。廻向とは、自分が行った善行や修行で得た功徳を、自分だけにとどめず、他の存在(故人や生きとし生けるもの)に振り向けることを意味します。あるいは、廻向をすることで、自分自身の悟りを目指すと同時に、他の存在も悟りの境地に至ることを願う、利他的な行いです。これを言葉を変えると

信者が自己の善行のメリットである福 徳を極楽往生 という他のものに変換することである。 このばあい、 信者 の福徳 が極楽往生に変換されるのであって、一人から他の人へ 功徳 が移行するわけではない。 善行というものはあくまでも、 この世の道徳であって、 その果報はこの世の幸福であるのに、それを 極楽往生 という、出世間的な、 善悪・禍福 を超えたさとりの境地 という、異質なものに変換するわけである。 

梶山 雄一「大乗仏教の誕生」

世間的価値が出世間的な価値へと変換されるわけです。ある種の奇跡ともいえるし、トリックともいえます。これは石がパンに変わったような、そんな出来事です。変換というものが身近なものであり、魔術とも、経済とも関係しているからでしょう。労働がいろいろなものに変化するように、価値もまた変化されるわけです。

私は複数の変換する空間を移動しながら生きているのでしょう。商品市場という変換空間や、価値をめぐる変換空間です。変換する空間とはそれだけなのでしょうか。

私はそのどちらでもない空間を夢想します。多分文学変換空間です。文学もまた想像力によって、配分を変換し、価値を変換します。

最後にゾラが語ったとされる文を引用しておきます。

ゾラは自信 たっぷりに「 文学における金銭」の最後で 小説家志望の青年たちにこう 忠告している。「金銭をうやまいなさい 詩人を気取って金銭に毒づくような子供じみたまねをしてはならない。全てを言い得るために自由であらなければならない 我われ 作家にとって、金銭は勇気であり 威厳 である。 金銭があればこそ 我われは、世紀の知的指導者 、つまり 唯一 可能な貴族 たりえるのである。 君の時代を人類史で最も偉大な時代の一つとして受け入れ、 将来を固く信じなさい。 ジャーナリズムの逸脱 や低俗文学の金儲け主義など、不可避的な結果にこだわってはならない。最後に、滅びた社会とともに消え去った昔の文学精神を悔やんではならぬ」

山本 芳明
カネと文学ー日本近代文学経済史ー


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