なんで言語化って大事なの?

 note内に数多くある言語化の記事を見て思う事があります。 

 みんな言語化の重要性を唱えつつ。noteの内容は
視覚的に見やすいように画像を使ったり。

見出しや目次を作って読みやすくしている。


言語化の大切さを説く割には、視覚的な情報を重要視している。

色んなnoteの言語化についての説明を見ると、

言語化=伝達力
言語化=共感力
言語化=理解力

のように皆好き勝手に言語化という言葉を解釈して自分の主張を発言しているように感じます。

言語化とはなんぞや?という問題提起をした後すぐに自分の思う言語化を説明して終わる。

僕はそれが不思議でしょうがない。

なんでみんな言語化すれば仕事が上手くいく。
言語化すればゲームが上手くなる。
言語化すれば悩みが解消する。

言語化は魔法ではないのに、言語化すれば成功する事と接続している人が一定数いる。

言葉というのは考えれば考えるほど分からない物だと僕は思うけど、言葉にすれば解決するなんていう幻想がなんで蔓延っているのだろうか?

言語化の無力さというものを感じた事がないのだろうか?

そうはいいつつ、言語化した時の万能感は確かに素晴らしい。

嫌な気持ちに心が支配された時に、こういう事が
原因で辛かったんだと分かった時に救われた気持ちになることは否定はしない。

言葉にすれば気持ちよくなる事は僕もよくあります。

 それでも、結局は言語化は自己満足の物でしかないと僕は思っている。

 万の言葉を自在に操らなくても
辛い時に「辛い」と誰かに吐露すれば救われる事だってあるだろうし、誰かと共感したい時に「ヤバい」と言って共感する事だって出来るはずなのに。

今の現状を事細かに説明しなくても、伝わる事だってあるだろうに。

「ヤバい」と言った時に「何がヤバいの?」と説明を求める人が言語化の素晴らしさを説いているのはギャグのようにしか見えない。

 そうして説明を求めて返答が
「ヤバいといえばヤバいの」と言われたら確かに言葉には詰まってしまう。何が言いたいのか分からなくなるとは思う。

仕事でトラブルが起こった時に「ヤバいです」
だけ言われたら腹が立つし、説明しろというのは当然だと言うのは分かる。

問題を解決するために原因追及する為の言語化は
仕事をスムーズに進める為に必要という話を否定するほど僕は馬鹿ではないです。

でもその思考は仕事をする時に必要な事であって、
プライベートのような空間では必須なスキルではないのではないか?

他人に説明を求めすぎるような風潮が嫌いだ。

分かるように説明を求めている割に、どういう事か分からないと自分の理解力を棚に上げて相手の説明力の無さのせいにする。

会話する時に分からないのであれば
「◯◯って事でいいの?」と聞けば相手だって話しやすくなるだろうに、そういう努力をしない。

理解しようとせずに一方的に説明を求める人が多い環境で仕事をしていたからとても辛かった。

少し話が散らかり過ぎたので改めて
言語化について考えていることを説明すると、

  • 仕事中に求められる言語化つまり【相手が理解しやすいように説明すること、または状況を伝達する力】

  • 雑談のようなプライベート空間で求められる言語化つまり【共感が重要視されるような会話や相手を思いやり尊重する為の言語化】

このようにいくらでも【言語化】という言葉の意味を無限に解釈出来るしそんな言葉は「ヤバい」と同じだと僕は思う。

いくらでも言葉自体が文脈によって誤読やあらぬ方向に解釈出来るのに、言語化出来ていいねと満足している。

僕のTLで最近話題になっている。 冷笑する40〜50代のオタクがポリコレや左翼を攻撃する行為に辟易しているというツイートについて皆様々な立場からツイートしている。

僕はこのような分断が起こってしまう原因は
言葉そのものに問題であって、好きに解釈可能だからこそだと思っている。

つまり概念化した言葉によって無限に解釈を付け加える事が出来るようになってしまった結果。色んな立場からその事について語る事が出来るようになったのが問題なのではないだろうか?

マウトナーの言語批判について調べていくと、
言語批判というものが継続して研究されていない理由の一つに新たな解釈をつける事が出来なくなったという事があるらしい。

言語批判について肯定的に語る場合、最終的には「沈黙するしかない」ということにつながってしまう。「沈黙するしかない」という事に行き着く理論について学者や研究者が肯定的に語りにくいという事があったからではないだろうか?

研究を続ける為には成果が必要。成果を発表するためには言語が必要 その前提を崩す言語批判を肯定的に捉えられない人がいてもおかしくはないと思う。

それは学者や研究者だけではなく、個人が発信出来るようになったSNS時代でも同じ事が言えると思う。

SNSを見ていると「どちらが正しいか」という事について語り続けている事が多いように感じる。

それは政治的な話であったり、自分の趣味についても「どちらが正しい」が重要視されているように思う。

でもTwitterのアルゴリズムについて解説しているサイトを調べみると、拡散されやすい情報は「正しい」情報ではなく、アルゴリズムが重要と判断する基準を元に拡散するかどうかを判断していた。

これは「正しい」という事はTwitterのアルゴリズムでは判断できないので、数値化出来るイイネやリプライやRT ミュートやブロックという事を元に判断しているに過ぎない。

Twitterで重要視されているのはとにかく「語る」事が重要視されているのではないだろうか?

陰謀論も原発の有無もオタクのあり方であろうと
ハンバーガーの写真や自撮りの写真であろうが
Twitterというプラットフォームを通した場合
全ての情報は同等の価値でしかないと思う。

 だからこそTwitterで「何が正しい」かを語る事についていつも疑問を持ってしまう。

話す人にとっては重要な話であろうが
あなたの語る内容は「ファーストフードのハンバーガーの写真」と大差がないのではないだろうか?

「ファーストフードのハンバーガーの写真」と
この世真実と言われる情報であろうが、Twitterを通してしまえば全て同価値になってしまう。

 Twitterで重要とされているのは「正しさ」ではなく「語る」事なのだから。

語る事を重視するのはある意味当然の帰結で
 人がたくさん集まることが重要なのであって
「正しさ」二の次ではないだろうか?

それを理解せず、「正しさ」を求めてしまうと
それは正しさを求める清き人間ではなく、Twitterの養分なのではないだろうか?

 私達は「語る」事を強要されつつ、Twitterの養分にされている。 そうした養分が次に行き着く先は「言語化」という虚無なのである。

 言葉にするだけで褒められる現象、それについて疑問すら浮かばず答えのない事を延々に考えされ
140文字程度にアウトプットして褒められ気持ちよくなる。

タイトルには「言語化はなんで必要?」と書いたが
 私は言語化を必要だとは思わない。

結局「語る」事や表現することで商品(ツイート)を提供させられているだけで、養分に何でもいいから語ってほしいという要望に対して「言語化」というカッコよく聞こえる言葉に言い換えているだけではないだろうか?

 今の社会が分断していく理由は「どちらが正しいか」自分の主義主張の正当性を語る事によって分断が起こると思っている人がいると思うが、そうではなく「語る」という行為自体が分断を起こす原因なのではないだろうか?

ヴィトゲンシュタインの「語り得ないものについては沈黙するしかない」という言葉を引用してしまうが、私達が分断を加速させない為にすることは沈黙であり その沈黙というのは「語らない」ではなくTwitter上でアクションを起こさない(イイネやRT)をしない事ではないだろうか?

語る事を強要され、そのために必死に「言語化」しようと試みている。

その姿を滑稽だと思う姿勢がなくなり、「言語化」できる人はカッコいいに変わりつつある。

私もこれだけ文章を書いているのに、言葉を批判するなんておかしいと思う人がいるかもしれない。

でもその矛盾を理解しつつも言語を用いてでしか批判出来ないという諦観から出発してもいいのではないだろうか?

言語化を求められる社会で「言語化」は必要ないと言い切る人間がいてもいいと思っている。

だからこそ一度、本当に「言語化は」必要なのかその問いを考えるべきではないのだろうか?









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