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【ロングインタビュー90分1本勝負!後編】伝説のプロレスラー藤波辰爾 VS 水産業界の革命児 山田信太郎がプロレスへの熱い想いを語る!

山田水産が行っているアスリートサポート「山田の“勝負メシ”プロジェクト」。その一貫で連載している山田水産が食のサポートをしているアスリートと弊社社長の山田信太郎が熱く語り合う対談企画をここ公式noteでも掲載スタート致します。この企画はどの回もボリューム満点!読み応えある対談をぜひお楽しみください。

今回は、前編に続き、藤波辰爾さんと山田社長の対談の後編をお届けします!

レジェンドレスラーたちとの名勝負をドラゴンが振り返る

山田 藤波さんは、当時活躍していた大型レスラーとはほとんど対戦されているんですか?その中で、一番印象に残っている選手は誰ですか?
 
藤波 アンドレ・ザ・ジャイアントですね。彼はもう存在そのものがレスラーでしたね。山本さんが当時、口癖のように「遠くからでもレスラーとわかる身体を作れ」と言っていました。今はバスで移動する団体が多いですが、昔は電車で移動していたので、身体の大きさで目立つ選手が多かったですね。誰が見てもレスラーの身体でいることが、魅せるスポーツにおいてとても大切なんだということを学びました。
 
山田 タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・マードック、みんなとても大きかったですよね。新日の外国人選手は子どもながらに怖いなと思っていました。
 
藤波 新日は猪木さんがいることで、外国人や若手選手がどんどん育っていましたね。一時期は日本人選手がアメリカに行って修行してくるというのが一般的でしたけど、それがのちのち逆転してアメリカ人選手が勉強にくるようになったり。みんな日本に来て、技を磨いてアメリカに帰っていってましたね。
 
山田 こんな質問してしまうのも恐縮ですが、実際にアンドレと戦ってみていかがでしたか?(笑)
 
藤波 勝敗よりも今日が1日無事に終わるといいなと思いながら戦いましたね。でも実は、選手が今日は戦いたくないなと思う試合とかヒヤヒヤするような試合の方がお客さんは盛り上がるんですよ。今思えば、貴重な経験をさせてもらっていたなと思いますね。
 
山田 今までで一番痛かったことは、アンドレに指を踏まれたことだとおっしゃっていて(笑)  それは痛いだろうなと思いました。
 
藤波  半端ない痛みですよ!ロープに飛んだとか、投げられたときの方が、気構えができているですけど、あの体重で無防備な攻撃は痛いですね。もう彼も亡くなって20年近く経ちますけど、とても性格のいい素敵な人だったんですよ。海外に遠征に行くとき、よくアンドレと一緒になることが多かったんですけど、とても気さくでね。よく一緒に飯を食ったりしましたね。
 
山田 藤波さんもアンドレをボディスラムしたことありますか?
 
藤波 1回だけありますね。でもあれは彼の協力あってできる技ですよね(笑) でもそれにしても、よく僕に託してくれたなと思いますね。だって中途半端に投げられたら怖いじゃないですか。ちゃんと投げられる人なのか見極めた上でのことだと思いますけどね。
 
山田 あの技を生で見れた人は幸せだろうなと思いますね。究極ですよね!マットの音も半端じゃないですよね。
 
藤波 アンドレが初めてボディスラムをしたのが、田園コロシアムでのハンセンとの試合だったんですけど、衝撃はすごかったですね。レスラーみんなが唖然としてましたね。2m20cmの240kgの選手ですから、お客さんが総立ちでも、頭1個飛び出してましたからね。何をしてもすごい迫力なのに機敏なんですよ。
 
山田 最初の頃、ドロップキックもしてましたよね。
 
藤波 自分が大きいということをよく理解しているから、プロとしての見せ方が上手いんですよ。古舘さんが彼のことをね・・・
 
山田 歩く人間山脈!1人民族大移動!
 
藤波 そうそう(笑) 上手いこといいますよね!
 
山田 新日のプロレスと古舘さんの解説はセットですよね。
 
藤波 だからこそ、視聴率20%を毎週叩き出せたんだと思いますよ。
 
山田 飛龍10番勝負など、藤波さんのご活躍もずっとTVで拝見していました。 

藤波 そうですね、結果的には10番勝負を消化しないまま終わりましたけどね(笑)
 
山田 バッドニュース・アレンは最高に僕好みのレスラーでした!
 
藤波 柔道出身のいいレスラーでしたね。
 
山田 アブドーラ・ザ・ブッチャーとも試合されてますよね?
 
藤波 ブッチャーは全日から新日に来たときに、猪木さんと一緒に試合しましたね。ブッチャーがまだ日本プロレスだった頃、白いステテコ姿に裸足でね。僕より少し小さかったけど、すごく機敏だったんですよ。あのときのブッチャーは怖かったですね。僕はセコンドについていたんですけど、THEプロレスラーだなと思いました。
 
山田 ハンセンは無名の頃に、新日に来たんですか?
 
藤波 そうですよ、ただ馬力だけでね。ビックバン・ベイダーも一緒ですね。

プロレス史上初の東京ドーム開催!伝説の試合「格闘衛星 闘強導夢」

山田 プロレスの試合をドームで開催したのも新日が最初でしたよね?
 
藤波 坂口さんが社長で、猪木さんはまだ現役だった頃なんですが、東京ドームで試合をすると言い出したときに、社内のみんなが「何をまた馬鹿げたこと言ってるんだ!」という雰囲気でしたね。両国国技館や武道館でも興行的に難しいと言われているのに、何が東京ドームだ!という感じだったんですけど、猪木さんは「今だからやるんだよ!」と言い張ってね。それで開催されたのが、1989年の「格闘衛星 闘強導夢」です。
 
山田 初戦は、ロシアのサルマン・ハシミコフでしたね。猪木さんの試合だけロープがなかったのを覚えています。
 
藤波 そうでしたね。他にもヨーロッパから6人くらい選手が来たんですけど、みんなアマチュアのメダリストばかりだったんですよ。みんな掴んだら投げるしかないような感じで大変でしたね。
 
山田 そんな中、きちんと試合を成立させる藤波さんたちがすごいですよね。
 
藤波 自分たちがリングで試合をしている以上、それを見ているお客さんに対してどれくらいの感動を与えられているかは常に意識していましたね。
 
山田 藤波さんが戦ったのもレスリングの選手だったんですか?
 
藤波 そうですね。柔道の選手もいましたね。ザンギエフだったかな?彼が一番うまかったですね。

山田 ビクトル・ザンギエフですね!今考えると新日のロシア人選手たちって、すごいパワーがありましたよね。それにしても東京ドームってすごい会場でしたよね。
 
藤波 当時お客さんもドームという大会場を楽しみにしてくれていて、出場選手も対戦カードも何も決まっていないのにチケットが何千枚と売れていましたね。それをきっかけに福岡ドーム、名古屋ドーム、大阪ドーム、長野ドーム、札幌ドームを回るツアーもしていました。東京ドームは年に2〜3回開催してたんじゃないかな?
 
山田 プロレスってこうして歴史があって、幅広い世代に熱狂的に愛されていますよね。それって本当にすごいことだなと思います。
 
藤波 長くプロレスを続けていると3世代で応援してくださるファンもいますね。僕は力道山と対戦していたフレッド・ブラッシーとも試合をしていますからね。
 
山田 得意技が噛み付くの、フレッド・ブラッシーですね!(笑)
 
藤波 ヤスリで歯を磨いてね(笑)
 
山田 ブラッシーと試合をした選手が今も現役でリングに立っているって素晴らしいことですよね。タイガー・ジェット・シンももう引退しているんですか?
 
藤波 彼ももう引退してますよ。もともと貿易商を営むビジネスマンでしたからね。
 
山田 そうなんですね!「インドの猛虎」と言われていましたけど、カナダ人なんですよね(笑) 見た目とギャップのある選手だったんですね。
 
藤波 彼はすごかったね。レスリングのキャリアはもともとなかったんですけど、恵まれた体格と手の取り方、足の取り方すべてがうまく見えてしまうあの風貌は才能でしたよ。大きな身体だけど、動きはとても機敏でね。今でも忘れられないのが、川崎市の体育館で開催されていた試合に、お客さんとして来ていたんだけど、猪木さんの試合に乱入したんですよ。当時試合は生中継だったから、すぐに注目されてね。
 
山田 猪木さんが新宿伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンに襲われた新宿伊勢丹前事件もありましたよね。当時新聞にも取り上げられていたのを覚えています。
 
藤波 そんな場所で偶然出くわしてしまうところが猪木さんらしいですよね(笑) 猪木さんだからこそ、マイナスのできごとをプラスの発想に変えられるところは本当にすごいなと思います。
 
山田 バイタリティの塊ですよね。僕ら経営者も猪木さんのようなバイタリティが必要だと思います。リスクを取らないことばっかりでやったときのメリットしか考えないんですよね。藤波さんにとって、師匠はずっと猪木さんなんですか?
 
藤波 そうですね。僕はもう新日を離れていますが、今でも猪木さんの教えに背中を押してもらうことも多いですね。試合数こそ少ないですけど、春と秋に自分の団体の興行をやると決めて実行しているのは、猪木さんの影響が大きいです。試合をするときに、選手がどういう試合をするかを何もないところから作っていくわけですから、どういう演出をするかも含めて一から考えないといけないので大変でしたけどね。今は幸いにも、新日を始めたくさんの団体から選手が来てくれるようになりました。

山田 猪木さんの体調は最近いかがでしょうか?
 
藤波 一昨日かな?久しぶりに電話して、元気そうでしたよ。今だに電話すると僕にも「元気ですかー!」って言ってくれるんですよ(笑)今だに電話越しでも緊張しますね。僕は猪木さんに憧れてこの世界に入ったので、ただのファンに戻ってしまうんですよ。その様子を見て、妻や息子は「お父さん未だにファンのままなんだね」と不思議そうにしていますね。
 
山田 今はそういった結びつきの強い師弟関係も珍しくなってきましたよね。
 
藤波 若手選手の方が、猪木さんにタメ口ではなしてるんですよ。僕らはとてもじゃないですけど、そんなことできませんからね。日本プロレス時代からの付き合いなので、もう50年以上ですよね。自分の親よりも長い時間を過ごしていますね。
 
山田 その次に長い付き合いなのは誰ですか?
 
藤波 坂口さんですね。猪木さんとはまったく違う性格でしたね。坂口さん、猪木さんに続いて3代目の社長をしていたときも、坂口さんがいろいろなアドバイスをくれました。僕が社長になってからもいろいろありましたけど、社長って孤独で辛いですよね(笑)
 
山田 新日の社長は特に大変だと思いますよ(笑) 特に大変なときでしたよね。
 
藤波 そうですね。でもファンがずっと新日を応援してくれていて、今の僕の団体も半分くらいは新日時代からのファンだと思います。ありがたいですね。

山田 新日のファンはとっても熱いなと思います。最近の藤波さんから見て、最近の新日はいかがですか?

藤波 ここ最近久しぶりに新日のリングに数回上がってるんですけど、選手の育て方とかしあいの作り方とか含めて、今の選手は今の選手なりに頑張ってるなと思いました。ニューヨークのWWEを小型版にしたような、そんな雰囲気を感じましたね。選手は選手で、コンディションもいいですし、各々でしっかりと練習しているんでしょうね。テレビに映っても負けていない、ちゃんとした身体作りをしているんだなと思いましたね。

昔は見栄えある身体というよりも、テレビがよっぽどひかないと身体全体が映らないくらいデカかったんでね(笑) とはいえ、今の選手たちも身体もできているし、それぞれの役割もできているので、今の時代にフィットしているなと思って、僕自身の考え方を改めようと思いましたね。以前は、これまでのイメージで新日はこうでないといけないと思ってましたけど、今は今でそれぞれちゃんとやっていて、お客さんもついていますからね。これからも頑張って欲しいなと思っています。

新日のプロレスリングは、団体で一番重くて固い!?

山田 プロレス業界が元気だと、ファンにとってもとても嬉しいです。今年の5月に志布志の「うなぎの駅」にDDTのみなさんにお越しいただいたんですが、プロレス団体が志布志に来るのは25年振りくらいで。地域のみなさんがとても喜んでくださいました。今回の大会は、青空のもとで開催された野外イベントだったんですが、社員とDDTの若手選手のみなさんと一緒にリングを作ったのも印象的でした。リングってすごいですね。
 
藤波 リングも進化していて、最近はとてもスムーズに組み立てができるようになりましたね。昔はボルトで締めていたんですけど、最近はボルトも使わなくなっています。アメリカのリングはもっと簡単みたいですよ。華奢なんですが、音がいいんです。

日本のリングの中でも、うちの団体のリングはしっかりしていますよ。うちの家内の実家が製鉄所なので、リングなんてお手の物なんですよ(笑) 前田が独立するときにも、1つリングを持たせてやりました。あとは猪木さんの団体用に作りました。リングが原因でケガをすることがあってはいけないということで、すべて厚みのある鉄で作っているので、重いんですよ。リングが重いということは、硬いことを意味するんですね。だからうちのリングはアンドレクラスのレスラーが何人乗っても大丈夫!昔はよくロープが切れたりもしていたんだけど、今はロープの質もよくなっていますね。
 
山田 今回初めてリングに触れて、ロープの作りに驚きました!
 
藤波 ワイヤーが入っていて、選手の重みでしなっているんですよ。僕たちは瞬間瞬間に受け身をとっていますけど、選手じゃない人がロープに当てられると肋骨なんかにヒビが入るでしょうね。
 
山田 試合を間近で見て感じたんですが、みなさん簡単にロープワークをされていますけど、すごく高度な技術ですよね。全力で走って、途中でくるっと向きを変えるのだって、歩幅を合わせるのも大変だろうなと思いました。
 
藤波 今は少しリングが狭くなっているので約5m四方だと思いますが、もともとはボクシングのリングをプロレス用に改良したものなので、正式なサイズは6m40cm四方なんです。


2022.5.8に行われたDDTプロレスリングによる
青空リング「FRIED山田祭り揚げんのか!」特設会場

山田 リングを見た社員たちの第一声が「こんなにリングって小さいんですか!?」だったんですよ。素人にはもっと大きな印象があったみたいで。
 
藤波 ニューヨークのプロレス団体は、演出や見せ方がとても上手なので、リングを見ると小さいと思う方も多いですね。アメリカのリングはロープは少し細めになっていて、選手が大きく見えるように作られているんです。それでいてドカーンと軽くていい音が出るようになっていて、エンターテイメントの最高峰だなと感心します。日本のリングは固いので、ドターンという鈍い音なんですよ。特に新日本プロレスのリングは固くて選手たちは本気で唸り声を上げていることもあります。
 
山田 僕が若い頃は、新日のはセルリアンブルーのリング、全日が赤と青のリングだったのを覚えています。リングひとつとっても全然違うんですね。
 
藤波 僕が入団した頃は、真っ白いキャンパス生地のリングが多かったですね。それがだんだん汚れていって、シーズンオフになると広げてたわしで洗ってましたね。懐かしいな〜

リングに上がり続けることが、人生のモチベーション

山田 年間で260試合していたころは、どのようにして身体のメンテナンスやリカバリーをされていたんですか?
 
藤波 リカバリーやケアなんて当時はしていなかったですね。だから腰を痛めてしまったんだと思います。忙しさもあってそこまで気が回らなかったですね。若さでカバーしていたというのもあるでしょうね。今はどの団体にもだいたいトレーナーがついていますが、我々の頃は誰もいなかったです。レスラーが痛いというのは、恥とされていましたからね。レスラーでも痛いものは痛いんですよ!(笑)
 
山田 それは山本さんの根性論ですか?
 
藤波 そう、山本さんの根性論が本当によくない!足が痛いので練習を休ませてくださいなんて言うと、「馬鹿野郎!スクワットをすれば治る!」とかそんなことを言われていましたね(笑) プロ人生50年過ぎましたけど、その半分くらいはヘルニアですからね。連戦で蓄積した疲労がどこかで爆発してしまって、1年3ヶ月休養しました。やっぱり身体のケアは大事ですね。
 
山田 武藤さんも怪我をされていますが、リングに上がると普通に動いていて、プロの根性を感じました。
 
藤波 世代的に、痛くない=完治なんですよ(笑)
 
山田 名言ですね(笑)
 
藤波 私も10年前に腰の手術をしたんですが、手術をしたら痛みは取れるんですよ。だから痛くないから治ったと思ってしまったんだけど、病院の先生からはもっと長い期間安静にしていないと完治しませんと言われて、そういうものなのかと驚きましたね。
 
山田 プロレスラーの全治何ヶ月って短い気がしてたんですけど、そういうことだったんですね(笑)
 
藤波 どんどんスケジュールが決まっていくので、そこに合わせて自分の身体が自然と調整していくんだと思います。気持ちの強さでなんか乗り切ってしまうんですよね。

インタビュー前にしっかりと鰻プロテインを注入する
藤波氏と山田社長。東京飯田橋「山田の鰻」

山田 じゃないと当時の新日の試合日程なんてこなせないですよね。
 
藤波 今日なんて鰻が2尾も乗った鰻重を食べさせてもらいましたので、気持ち的にはアンドレだって投げられますよ!(笑)
 
山田 最高の名言をありがとうございます...!
最後に藤波さんが今もなお現役の選手であり続けられる秘訣を教えていただけますか?
 
藤波 自分の中で何か目標を掲げるのがいいでしょうね。僕は12月に69歳になりますが、70歳まではこの肉体を維持しながら現役でいたいと思っています。そしてどんどんスケジュールを決めて動いていくことですね。我々の世代はスケジュールが空いていると不安になる人が多いと思うんですよ。
 
山田 それは新日のベンチャー魂があるからですね。でもこれはやっぱりプロレスがお好きだから続けられるんですよね。
 
藤波 その通りですね。僕にとってプロレスは天職だと思っているんです。プロレスに出会っていなかったら、今頃どんな人生を歩んでいたのか想像も付かないですね。プロレスによって生かされています。試合に出場し続けることは難しくなってしまったとしても、何らかの形で一生リングに上がっていたいですね。これから何か違う仕事をしていくにしても、リングに上がることがいいモチベーションになりますから。リングを背負って歩きたいくらいです。
 
山田 12月の試合、会場に鰻重やお弁当を持っていきます!藤波さん、本日はお忙しいところ、貴重なおはなしをありがとうございました!

プロフィール

藤波辰爾 プロフィール
1970年6月、16歳で日本プロレスに入門。翌1971年5月9日デビュー。
72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦の第1試合に出場。同年12月に開催された第1回カールゴッチ杯で優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。欧州や米国、メキシコ各国を転戦。カール・ゴッチ氏のもとで修行を積み、 78年1月にWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得した。81年末にヘビー級転向を宣言。飛龍十番勝負を戦い続け、WWFインターナショナル・ヘビー級王座をも獲得。翌82年10月にメキシコ遠征から帰国した長州力に挑発される形で、ライバル抗争に突入。両雄の戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれ、スピーディな展開でヘビー級のプロレスにも変化を与えた。 新日本プロレスのエースとして活躍し、95年10月、自主興行『無我』を旗揚げ。99年6月からは5年間に渡り新日本プロレスの代表取締役社長を務めた。 06年6月30日付けで新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げ。 08年1月より団体名を『ドラディション』へと変更した。11年5月にレスラー生活40周年、 13年には還暦を迎え、 15年3月には日本人選手2人目となる (一人目はアントニオ猪木) 米国 WWEの殿堂入りを果たした。 17年にはデビュー45周年を迎え、記念大会を開催。 プロレス生活49年を迎えた現在も、 他団体に積極的に参戦するなど、現役選手として活躍中。

藤波辰爾 選手プロフィール ドラディション公式サイト

編集後記

今回の取材の前に、飯田橋にある『山田の鰻』で、カウンターに並び、鰻が2尾乗った特上の鰻重を食べたお2人。志布志の『うなぎの駅』で5月に行われた取材同様、和やかな雰囲気でプロレス談義に花を咲かせていました。取材中、藤波選手に過去の試合についておはなしいただいている際、外国人選手の名前を即答する山田社長。その素早さと記憶力にスタッフ一同驚きました(笑) 12月に代々木体育館で行われる50周年の試合に向け、藤波さんの大好きな鯖と鰻の差し入れを約束し、取材は無事に終了しました。

取材・構成/ユウミ ハイフィールド